先日紹介した『教室内(スクール)カースト』では、カーストでの生きにくさに対してカーストから抜け出してしまう、というひとつの対処法が書かれていたけれど、本書での「こじらせ」とは、そうした「抜け出す作法」のひとつであるように思った。たとえば、筆者の高校時代の回想には、奇抜なファッションに身を包みまくっていたため、恋愛に興味がないイロモノ扱いされ、女子たちのヴァレンタイン・デーの催しに誘われない! という切ない、というかイタいエピソードがある。これなどまさにトリックスター的であるし、そうしたイタさの徹底が、仕舞にはアウトカースト的な位置にたどりつくための戦略だったのでは、とも思える。
(あえて)この「戦略」(と言うけれども)が巧みだ、と感じるのは外から見たら彼女があたかもひとつのカースト内にいるように見えて、実は序列の外側の特別な位置を得ている点だ。もちろん、そのイタさの発露には「普通にオシャレをしても上位にはいけない」というカースト上昇への諦念とコンプレックスがあり、楽な場所ではないけれど、それは「ここからは上がりも下がりもしない」というある種の安定があったのではないか、と推察される。普通の勝負を続けて傷つくよりも、先に「どうせ自分は頑張っても……」という自己批判のまなざしによって傷ついていく悶々とした感じは、批判を先取りして自分で自分をツッコんでいく文章によって、読んでるこちらにも伝わるようだ。
「AVライター」としての活動を続けるなかで「美人ライター」という肩書きを与えられたときの感覚もまた興味深い。
著者は「美人ライター」という言葉を「顔写真を出さないように、女ということが極力目立たないようにと思って仕事をしていた私のせせこましい努力を一瞬で水の泡にする」ものだったと綴っている。「美人○○」(男性ならば『イケメン○○』)と呼ばれたら、それは評価されたものとして、ありがたく受け取るハズだ、と思うからこそ、そんな呼ばれ方をする。しかし、ここでの褒め言葉は絶望をともなった「ありがた迷惑」として彼女には受け取られてしまう。女ということが目立たない、そのカーストのなかで勝負をしないように生きてきた積み重ねを「美人ライター」という言葉が、彼女をカーストの戦場に、一気に勝手に引き上げてしまうのだ。
言うなれば、本書も「自意識悶々」系のエッセイというカテゴリーに属するだろう。その手の本を読んで、共感する、とか、スッキリする、とか、救われる、とかいう個人的な時期はとっくにすぎているのだが、やはり読んでいて悶々として嫌な気分になるのは、まったく無理解だから、ではなく、なにがしかの共感できるものがあるのだろう。自意識をこじらせた毒がじわじわ伝わってきたときの息苦しさは、もしかしたらその手のカテゴリーでの成功を物語るのかもしれない。
著者は「美人ライター」という言葉を「顔写真を出さないように、女ということが極力目立たないようにと思って仕事をしていた私のせせこましい努力を一瞬で水の泡にする」ものだったと綴っている。「美人○○」(男性ならば『イケメン○○』)と呼ばれたら、それは評価されたものとして、ありがたく受け取るハズだ、と思うからこそ、そんな呼ばれ方をする。しかし、ここでの褒め言葉は絶望をともなった「ありがた迷惑」として彼女には受け取られてしまう。女ということが目立たない、そのカーストのなかで勝負をしないように生きてきた積み重ねを「美人ライター」という言葉が、彼女をカーストの戦場に、一気に勝手に引き上げてしまうのだ。
言うなれば、本書も「自意識悶々」系のエッセイというカテゴリーに属するだろう。その手の本を読んで、共感する、とか、スッキリする、とか、救われる、とかいう個人的な時期はとっくにすぎているのだが、やはり読んでいて悶々として嫌な気分になるのは、まったく無理解だから、ではなく、なにがしかの共感できるものがあるのだろう。自意識をこじらせた毒がじわじわ伝わってきたときの息苦しさは、もしかしたらその手のカテゴリーでの成功を物語るのかもしれない。
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