スキップしてメイン コンテンツに移動

Ann M. Blair 『Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age』

Too Much to Know: Managing Scholarly Information before the Modern Age
Ann M. Blair
Yale University Press
売り上げランキング: 48,365
ハーヴァード大学の歴史研究者、アン・ブレアによる『Too Much to Know』を読了。タイトルを直訳すると「知るべきことが多すぎる」、内容としては副題にもある通り、近代以前における情報管理についての研究書である。「そんなの研究者でもない一般人が読んで面白いの?」と問われそうだけれども、大大大名著。めちゃくちゃ面白い。ちょっと前に読み終えたベリル・スモーリーの『Study of the Bible in the Middle Ages』と同様、かつての知的な営みがどんなものだったのかが窺い知れる作品だ。インターネットとコンピューターの爆発的な普及とGoogleに代表される優れたサーチ・エンジンのおかげで、現代は「情報爆発の時代」と言われる。情報が多すぎる、必要な情報を選別しないと混乱するだけだ、という問題の指摘は現代のヒョーロンカ筋が難しい顔で語りがちなテーマでもあるだろう。しかし、コンピューターのない時代、それこそ、セネカ(ca. 4 BC – AD 65)の頃から「情報多すぎ」問題は語られてきた。17世紀のデカルトも「知識を見つけるよりも、探すほうに時間がかかりすぎる!」的なことを言う。これを考えると、文字による記録メディアが生まれてから「情報多すぎ」問題はほとんど人類にずっと付きまとってきたようにも思える。こうした現在と過去とで通じている問題を示唆する本書には、歴史研究書を読む醍醐味がたくさん詰まっている。

同じ問題がある、と言ってももちろん、昔はコンピューターなどなかったのだから今とは違った問題解決策がはかられることとなる。とはいえ、道具が違うだけでやっている内容は今も昔も根本的には変わっていない。その情報管理の基本を本書は「store, sort, select, summarize(保存、整列、選択、要約)」の「文書管理の4つのS」でまとめている。Googleがおこなっていることだって基本的にはこのメソッド通りだ。では、コンピューターがなかった時代の「文書管理の4つのS」って? これが本書のメイン・テーマとなる。本書の前半部分は主に技術的な側面が扱われる。たとえば、今ではありふれすぎてあるのが当然、だが、いずれ絶滅するかもしれないという「紙」というメディア、これだってヨーロッパで一般的になりはじまるのは、15世紀の活版印刷機の発明以降なのだから歴史的にみたら新しいメディアだと言える。紙以前にヨーロッパの知識人はなにを使って記録してきたのかのか、そして紙の登場以降に、どんな風に記録方法が変わっていったのか。勉強したことをノートにとる。これも今では当たり前のことだけれど、ノートを取ることが一般的でなかった時代に思いを馳せつつ、本書を読み進めるのは想像力を刺激する悦びがある。

後半部分は大量に記録されたものをどう整理されていったかにフォーカスが当てられている(大量な記録の動機を本書は中世において伝えられずに失われた書物が多々でてきたことがトラウマになっていたと置くのも面白い)。活版印刷の発明以降、ヨーロッパでは「リファレンス本」が制作されるようになってくる。リファレンス本は、大量の情報をうまくまとめ、役立つ情報に人々がアクセスしやすくなる知的に実用的な書物である。それゆえにこのジャンルは出版業者から有力な事業として見なされ、さまざまなものが出版された。そのなかにはラテン語の辞書だったり、過去の有名な著述家の引用集や古今東西の名鑑のようなものまで、さまざまなものがある。かつては図書館の本も自由にアクセスできなかったし(貴重な書物が盗難されたり、切り抜かれたりしないよう、現代の図書館のような閲覧スペースは昔の図書館にはなかったのだ)、そもそも本自体が高価なものだったので、リファレンス本だけを頼りに勉強する人も少なくなかったという。リファレンス本の制作はそういう意味で、公共的な善をもたらすものだった。手作業による編集はDTP時代の編集者には想像もつかないであろう労苦を伴ったが、なかにはその公共的な善をモチベーションにして貧しい暮らしをしながらもリファレンス本を作った人たちなんかもいたりと、リファレンス本制作にはプロジェクトXばりのドラマを感じるのだった。

英文はかなり平易でリーダブル。歴史に興味がある人だけでなく、情報技術を勉強している学生さんにもオススメしたい一冊です。


コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...