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合理性と野蛮さ、幸福の計量できなさについて(宮崎駿 / 風立ちぬ)

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久石譲
徳間ジャパンコミュニケーションズ (2013-07-17)
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宮崎駿の最新作を観る。公開前にいくつか制作時のドキュメントや、監督へのインタビューを観ていたが、今回は宮崎が映画の外で語る「映画に込められたメッセージ」がかなり直接的に映画に反映されているように思った。プロデューサー鈴木敏夫が「宮崎駿の遺言です」と語ったのも納得、というか、率直に言って説教臭さはかなりある、けれども、そうした強いメッセージとは別に、観た後もざわざわと消化できないものが残る作品だった。ひとりのエンジニアの半生のロマンスとしては、自分にしかできない仕事を遂げたいが、その仕事が自分にしかできないがゆえに、ブラックな労働をこなさなくてはならない、というある意味、苦境を乗り越えてなにごとかを成し遂げようとするヒロイズムがある。わたし自身、そこに共感できるものもあったし(つい最近まで一応技術者として暮らしていたので)、ひとりの少年が、夢のなかで達成すべき目標を授かる「目覚め」のシーンは、グッときてしまう。序盤で一涙。

飛行機製作の描写もハッとさせるものだ。飛行機でなくても、車でも家でも、なにかを作るといった場合、すぐに現実世界に部品かなにかの実体があって、それを組み上げて作っていくシーンを想像してしまうけれど、劇中の飛行機製作で描かれているのは「計算」と「スケッチ」と「図面起こし」という段階であり、このうち、主人公が計算尺を片手に紙へとさまざまな数字(観ている者にはほとんど意味が伝わらない。なにか意味のある数字であることしかわからない)を書き込んでいく計算の描写は、概念や理念といった実体のないところから、飛行機が生み出されていく創造のプロセスを強く印象づける。劇中のエンジニアたちは、よくできた飛行機を「美しい」と賞する。それは、その飛行機が数字から創造され、合理性を備えた、というか合理性の塊であることが、実体から理解できるがゆえの賞賛だろう。それは蝶の模様が美しい、とか、富士山はキレイだ、とか、そうした美的な感覚とは違った価値判断だ。理にかなった形は美しい。だから、ドイツの飛行機は美しい。単に曲線が美しいから美しいのではなく、その美しさには合理性の裏付けがある。そして、飛行機は合理的に飛び、効率的に人間を殺戮する兵器となる。そこでは美しさと野蛮さが表裏の関係にあるアドルノ/ホルクハイマー的な問題が描かれているように思った。

そうした合理性に裏付けされた美しさが描かれる一方で、それとは別に、まったく相反するものが描かれる。結核(当時の不治の病だ)のヒロイン菜穂子と結婚した後の主人公の生活は、非合理というよりかは、不条理に近い。看病するわけでもなく、ひたすら仕事に打ち込み、時には床に伏せる妻の横で徹夜の設計をする主人公たちの結婚生活は、幸福な結婚生活には端から見てまるで思えない。そして、主人公は娶った妻をどうするつもりなのか、もう一度入院させたほうが良いのではないか、と問いつめられる。これに対して、主人公は、今のかけがえない時間一瞬一瞬を大事に過ごしているのだ、と言う。この言葉が、映画を観た後、しばらくざわざわとしたものを残した。妻を再度入院させて生きながらえさせること、命を削っていることを理解しながら一緒に過ごすこと。そのどちらが幸福であったのかは計量できないものであり、結果としてふたりは一緒にその瞬間を過ごすことを、幸福なものとして選択していたのだ。ゆえに、その選択を間違っていると評価することは他人からはできないだろう。しかし「菜穂子の幸福は、あんな一瞬なもので良かったのだろうか」という疑問は残ったままであるのだ。

あと、カストルプ(これは『魔の山』の主人公の名前だ。読んでないけども)が『ファウスト』のメフィストフェレスのようで、なんだか恐ろしかった。菜穂子はマルグレーテ、二郎がファウストだったのでは、とも一瞬思った。

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