ジョルジュ・ディディ=ユベルマン 『時間の前で: 美術史とイメージのアナクロニズム』

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時間の前で: 美術史とイメージのアナクロニズム (叢書・ウニベルシタス)
ジョルジュ ディディ=ユベルマン
法政大学出版局
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「美術」というジャンルはわたしにとって「興味はあるけれど、遠い存在」で、それは自分が資格的な芸術にあまり強くないという自認によるものだ(年に数度、美術館にはいくけれど、絵そのものはあまり覚えてなくて、どういう絵を観たか、という物語的な記憶ばかりが残る)。けれども、自分の弱さを知っているがゆえのコンプレックス的な惹かれ方もしていて、チャンスがあれば美術史の本を手に取ってみたりもするし、読んでみて「ああ、やっぱり遠い存在だな」と残念になったりもする。

ディディ=ユベルマンの『時間の前で』もそんな感じで読みはじめたのだ。これは以前に古本屋で手に入れたことをtweetしたら、どういう本なのか教えてくださる方がいらっしゃった(せっかくなのでTogetterをはじめて使ってまとめてみた)のだが、読書するにあたってはその教示が大変に役立った。アダム高橋さんが教えてくれるように本書は、美術史の転換を促さんというアジテーションのようなもので、ヴァザーリやパノフスキーといった美術史家と、アビ・ヴァールブルク、ベンヤミン、カール・アインシュタインといった美術史家/批評家のモデルを対立させながら、後者のグループの語り口における「アナクロニズム」について説いている。

筆者が示した対立が、どんなものか、本書に出てきた言葉を使ってざっくりメモしておくと、前者の美術史は「誰それはなんとかの影響を受けている」云々といった体系的な歴史であったり、絵画のなかに描かれたモチーフや画面構成の意味を思想や文化との対応のなかで導き出す固定的なモデルをとる。これに対して後者の美術史は、可動性をもつ弁証法的モデルをとる。『ムネモシュネ・アトラス』、『パサージュ論』、『黒人彫刻』で描かれるモンタージュ的な歴史に現れるアナクロニズムは、常識的な歴史家に対して挑発的だ。ディディ=ユベルマンは、このアナクロニズムこそ、美術史の本質だ、と語る。

というのだが、かつて割合熱心なアドルノ読みだったわたしにとって、筆者が語る歴史モデルがアドルノの『否定弁証法』とどう違うのかよくわからないところがあった(ちなみにアドルノの名前は、ロルフ・ティーデマンの名前とともに一度だけ本書に登場する。ちなみにベンヤミンを読めてない人たち、として批判の対象になっている)。とくにカール・アインシュタインの美術論について語る第3章は、ほとんど『否定弁証法』と同じことを言っているように思うし、使われてる術語もかなり似ている。問題はわたしが「なぜ、アナクロニズムなのか」をあんまり理解していないことだ。おっしゃることは何となく分かるけれど、どう歴史役立つんですか、と。

『否定弁証法』もそうだが「可動的」だとか「非-同定的」な歴史記述というもの自体、不可能を前提にするもので、これはロマンティックな態度だと思う。そういうものに惹かれる気持ちも、こういうのがウケる気持ちもわかるんだけれど、たとえば山ほどの草稿を残して自殺したカール・アインシュタインに「書くことに対する絶望があった……」云々と言われても、そこに食いつくほど若くはない。ただ、ディディ=ユベルマンが言わんとしていることはもうちょっと読んでみないとわからないかもしれないし、読んでみよう、と思わせるだけのものは残った。

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