今日《マタイ受難曲》と言えば、まずはJ.S. バッハの楽曲を思い浮かべる人が大半だろう。しかし、本書はJ.S. バッハの《マタイ》にだけ焦点を絞らず、まず受難曲のフォーマットと歴史を概説している。これが実に効果的な前置きだった。その歴史を紐解くと、全人類の宝、というか普遍的な価値をもつ大名曲と評価されるJ.S. バッハの《マタイ》が、18世紀のライプツィヒというやや音楽的には遅れた町の伝統行事用の音楽に過ぎなかった。現在のユニヴァーサルな評価を知っている我々からすれば、そのローカル性を信じられないほどだだろう。彼の音楽性が保守的で、当時の聴衆には難解なものとして理解されたことは、岡田暁生による『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 』でも触れられているが、この《マタイ》もやはり保守的な様式だったと言う。この時代もっと感傷的なオラトリオを聴衆は好んで聴いていた。
歴史に名を残す人物の多くが、革新的業績をもつ人物であるのに、J.S. バッハという人はそうではないのかもしれない。保守的な技巧を卓越させた職人的作曲家が、普遍的な価値を持つ音楽、として今日聴かれていることはいささか奇妙にも思えるのだが、それは彼が当初より普遍的な価値を目指して楽曲を書きのこしていたのではないか、という想像力を働かせる。本書で読み解かれる音楽的修辞を、当時の聴衆がどれだけ理解できたのか。おそらく、あまり理解されなかっただろうし、ほとんど気がつかれなかったに違いない。だとするならば、それは誰に向けての修辞や意図だったのか。当時の聴衆に向けての表現でなかったがゆえに、ユニヴァーサルな価値を獲得しえたのではないか……などと思うのだった。
なんにせよ、本書を読みながら改めて《マタイ受難曲》を聴きなおすことで「なぜ、この曲に感動してしまうのか」の謎に接近できるハズである。
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