スキップしてメイン コンテンツに移動

男ふたりで京都と滋賀に足を運んで絵や写真をたくさん見たんだ日記(その1)

Untitled
高校の同級生と一緒に男ふたりで京都・滋賀にいき、絵や写真をたくさん見てきた(写真は、京都について食べたにしんそば。生まれて初めて食べた)。一泊旅行。同行者は過去に京都に4年住んでいたこともあり、京都の地理はだいたいわかる。それゆえ、わたしはただ着いていくだけの気軽な旅で、とても良かった。

いま、京都では「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真館 2015」というイベントが開催されている(5/10まで)。京都のいろんな場所で写真の展示があった。今年のテーマは「TRIBE: あなたはどこにいるのか?」というもので、記録写真(写真は記録メディアなのだから、この呼び方はトートロジー的であるな……)みたいなものが多かった印象。まったくパンフレットを見ないでいたのだが、いまこれを書きながら「うわ、こんなのもあったのか、これはちょっと見たかったな」という展示がいくつかある。

A Vision of Jazz: フランシス・ウルフとブルーノート・レコード @嶋臺ギャラリー

まず初めに足を運んだのがブルーノートのジャケット写真を多く撮影したフランシス・ウルフの展示。会場は大変に栄えた商家を改装したもので大変に雰囲気があった。入り口近くにはステレオが置かれていて、LPで音楽を流していた。レコードは新宿のジャズ・バー『DUG』の店主から借りてきたものだったらしい。展示自体は「ほー、こういう人があのジャケットをねえ……」と思うだけだったが、ギャラリーの持ってる「京都、いいところですね」というヴァイブスが最高だった。

Untitled


Untitled
なにせ、この中庭である。わたしは小さな庭園のなかにあるコスモロジーと言いましょうか、小さな空間のなかに大きな自然が含まれているようなところがとても好きなのだった。この中庭に面した室内では畳のうえに、無印良品の人間をダメにするソファーが置かれていて、そこに座ってCDが聴けるようになっていた。天気も良く、暑くも寒くもなく、時折気持ち良い風が吹いてきた。「ああ、これが京都か」(そうだ)「今日はもしかしたら一年のうち最高の京都日和かもしれない」(ちがいない)という問答を繰り返しているうちに日が暮れてもおかしくなかった。

フエゴ諸島諸先住民の魂 ―セルクナム族、ヤマナ族、カウェスカー族 @京都市役所前広場

Untitled
次に見たのがマルティン・グシンデという文化人類学者が撮影したパタゴニアの先住民族の写真。京都市役所(コロニアル風というのだろうか、めちゃくちゃカッコ良い)の広場に特設のパヴィリオンが作られていて、そこで展示されていた。パヴィリオンの設計は、坂茂で紙のパイプを柱にして作られた雑な言葉で表現するならば掘建小屋だった。屋根は、白い半透明の塩ビかなにかでできた波板で、あんまり通気がよくないパヴィリオン内はかなり蒸した。スタッフの方はよく1日我慢できるものである、と感心した。

このマルティン・グシンデの撮った写真だがちょっと前にネットで話題になっていたのを観たことがあった。
グシンデがフィールドワークをした部族は、こういう完全にウルトラマンにでてくる宇宙人的な意匠の格好をして儀式をおこなっていたというのが衝撃的だった。精霊たちに扮しているのだが、いったい彼らはなにを見てしまったのだろうか、と思う。どういう想像力なのだろうか。

Shadowland 1969-2014 ロジャー・バレンの世界 @コム デ ギャルソン京都店

南アフリカで活動しているらしい映像作家のロジャー・バレンの映像をギャルソンの店舗内で上映していた。もしかしたらギャルソンの店舗に足を踏み入れたのはこれが初めてだったかもしれない……(オシャレ恐怖症ゆえ、オシャレな人がいる場所にいくと冷や汗をかく体質なので)。映像と関係なく「うわー、ホントにおかっぱで全身真っ黒の服の店員さんがいるんだ〜」と感心した。映像の方は、詳細が全然わからなかったのだが、南アフリカの激烈に貧しい人(たぶん精神障害がある)を追ったもので、ネズミだとかウサギだとかの死体がたくさんでてきた。

ドイツアートBar 座談会『偶然の芸術』 @ゲーテ・インスティトゥート・ヴィラ鴨川

こちらは「KYOTOGRAPHIE」とは関係ないイベントで完全に同行者のおつきあいで足を運んだ。友人は、劇団「地点」の代表の三浦基のファンであり、その人がスピーカーとして登壇していたのだった。司会者も合わせると登壇している8人全員のことをまったく知らないという状態だったが、話の内容は面白く、友人が好きだという「地点」の活動を見てみたく思えたので個人的な収穫である。宮永愛子という人の作品も面白そうだった。まったく受動的に足を踏み入れたところでこういう新しい出会いがあるのはとても良い。

Untitled
夕飯は、よしみという居酒屋でいただく。カウンター越しに熟練の店主や、学生アルバイトが一生懸命働くのを見ながら酒を飲むのは楽しい。そこには確固たる秩序があり、世界が出来上がっている。

Untitled
その後、友人の思い入れがあるラーメン屋で支那そばを食べた(店名は失念)。30歳なのに学生みたいな飲み方をしていて大丈夫かと思いながら、電車に乗って大津まで移動した。次の日、滋賀にいく予定だったので、大津のホテルを取っていたのだった。それにしても大津の駅前の殺伐とした地方都市っぽさはすごかった。県庁所在地なのに。京都と距離がないせいで、全部京都に吸い上げられているんじゃないか。

収穫物

ゲスナー―生涯と著作 (Homines naturam inquirentes)
ハンス フィッシャー
博品社
売り上げランキング: 449,060

ランゲルハンス島航海記
ランゲルハンス島航海記
posted with amazlet at 15.04.27
ノイロニムスN
博品社
売り上げランキング: 1,456,616

飛行の古代史 (Documenta Historiae Naturalium)
ベルトルト ラウファー
博品社
売り上げランキング: 1,030,579
途中で立ち寄った三月書房で博品社の本を回収。京都に来てまで本を買っていて馬鹿なんじゃないかと思った。重くなった荷物分、業(カルマ)を感じる。

(つづく)

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...