スキップしてメイン コンテンツに移動

小林剛 『アリストテレス知性論の系譜: ギリシア・ローマ、イスラーム世界から西欧へ』

アリストテレスの『霊魂について』でおこなった知性論が、その後、アフロディシアスのアレクサンドロス、テミスティオス、アル=ファーラービー、アヴィセンナ、アヴェロエス、アルベルトゥス・マグヌスによってどのように解釈されていったのかを、彼らがおこなったアリストテレスのテクストへの注釈を辿ることによって整理した本。アリストテレスの時代から、アルベルトゥスの時代までだいたい1600年ぐらいの時間が経過しているのだが、その長いスパンでの知性論の変遷を捉えた本としては、日本語で読める(たぶん)唯一のものなので初学者には大変有意義な本であろう、と思う。

有識者によれば、本書巻末でも「多大な影響を受けた本」として挙げられている、Herbert Alan Davidson, Alfarabi, Avicenna, and Averroes, on Intellect: Their Cosmologies, Theories of the Active Intellect, and Theories of Human Intellect をアンチョコにしているのに「さも自分が考えました」という風に議論を進めているのは問題だ……ということだが、わたしは学者ではないのでひとまずそのへんは置いておく。

ここで「知性論」と言われているのは、人間はどうやってモノを認識したり、モノを考えたりしているんでしょうね、その働きはどういうものなんでしょうか、という議論である。それは西洋の哲学的伝統において、霊魂の働きのひとつであると考えられてきた(当然、現代の我々はそういう考え方をしない。知性を脳に還元している。知性の働きを語る際にいつから霊魂という枠組みが必要とされなくなったのか、という別な関心もあるんだが、それについてはTwitter上でこういう教えを授かった)。というか、アリストテレスの哲学の枠組みのなかでそう考えられてきた。

アリストテレスが完璧に「知性とはこういうモノです(試験にでるから覚えておくように!)」と説明しきっていれば、その後の議論というものはなかったに違いないんだが、残念ながらアリストテレスは、そういう仕事ができなかった。どうやら彼自身の生成・消滅の理論(自然界の物質が生まれたり、無くなったりする理屈を説明した理論)を、知性にも適用して説明しようとしているのだが、当然自然界の生成・消滅と、知性では振る舞いがことなるから無理が出てくるし、矛盾も出てくるし、そもそも何言ってるかわからない文章になってしまっている。

個人的にとても面白いと思うのは、そうした穴があるテクストを目の当たりにした後世の人が「いや、アリストテレスは間違ったことを言っていないはずだから、我々の解釈の仕方が良くないのだ。現に、こういう風に考え直せば、アリストテレスが間違っていないことがわかるじゃないか!」と言わんばかりに、議論をこねくり回している、ように見えることだ。宝物が埋まってるハズがないただの野原を、一生懸命いろんな穴の掘り方をしている……みたいな。バカにしてるように受け取られるのかもしれないが、全然そういう意図はない。ただ、なるほど、こういうのが哲学の営みなんだな、とちょっと感動してしまうのだった。

まあ、そこそこ頭を使わないと全然頭に入ってこない本ではあるんだけれど、そういう「わからない人たち」の営みを辿ってる本なのだから「ん? ん?」みたいな部分って沢山ある。そこはちゃんと著者が丁寧にまとめたりしてくれてるんで、わからなくても読み進めちゃっても良いように思った。偉い哲学者たちも、わかんないから議論を重ねていたわけだし。発展史観的感覚からすると、先行者の議論をわかった上で議論を進歩させているんだろう、と考えがちなのだが、そこが違う。

ただ、時代が進むにつれて、新しい概念とかが放り込まれてくると、だんだん「ああ、そういう感じね」とわかる部分が増えてくる感じがするんだよね。わたしはファーラービーのあたりから劇的に「あ、なんかわかる」という感じがしてきた。それは現代のわたしが考える脳に還元された知性の働きのイメージと、ファーラービーの考える知性の働きとが近づいている、ということなのかもしれない。そういうのって、なんかすごくないですか。

知性論への関心も、アヴェロエスの知性単一論への興味(知性は全人類にひとつ! とアヴェロエスは言っているんだが、誰もがそれどういうことですか、と思うでしょう)から始まってるんだけれども、本書を読んだら、知性単一論の壮大さの片鱗が味わえて良かった。人類という種のレヴェルで知性を捉えることで、消滅しうる個の問題を回避しようとした……云々とあり、ますます興味が深まるばかりである。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...