著者のブログには、こんな記事がある。
板東英二
本書に書かれている大半の話が、これに近い「なんとも言えない話」であり「なんでもない話」だ。良い話でも、悲しい話でもない。どこかおかしい気がするし、実際に笑ってしまうものもある。そして、なぜかとても強く印象に残る。無理やり解釈しようと思えばできなくもなさそうだし、そうした話をストーリーとして提示することも可能だろう。しかし、著者はそういうことはしない。「なんとも言えない」「なんでもない」話の集積によって、実に巧みに、社会で生きること、自分のこと、差別のこと、さまざまな事象を語っている。難しい理論なんてなにもない。社会学者の名前もほとんどでてこない。
毎日生きづらさを抱えて暮らしていた学生時代に、ゼミの先生が書いた本を読んで、少し救われた気持ちになったことを思い出した。それはコミュニケーションや振る舞いに関する本で、そこで用いられている理論的な説明が、自分の生きづらさを説明してくれるような気がしたからだ。事象を理論を通して解釈することで落ち着く。そういうことをして学生時代を乗り越えてきた、ような気もする。そういうのがわたしにとっての「社会学」だった。
『断片的なものの社会学』は、その事象 - 理論 - 解釈のアプローチとは正反対で、ひょっとすると、学生時代のわたしには理解ができない本だったかもしれない。でも、今は、この本に書かれている「なんでもなさ」の集積を、我々の社会を語る社会学として受け止めることができる。それはたぶん、わたしが学校を卒業してからずいぶん「なんでもない人生」を過ごしてきたからなんじゃないか、と思った。
実際、毎日会社に通い、好きなものを飲んだり食べたりしていると、あれほど過去に感じていた生きづらさに考えがいたらなくなる。事象 - 理論 - 解釈のアプローチが不要になった、なんでもない生活。楽なわけではないし、気を抜いていると、うっかり大変なことをやらかしてしまいそうな日常。30歳のわたしが身につけたなんでもない社会経験を通して、本書の「社会とはそういうものである」という記述を受け入れた気がする。同時にそれは、何者でもない自分を受け入れることでもあるような気がした。
とにかく、すごく良い本。久しぶりに息ができないぐらい笑ってしまったし、読んでいて少し泣いた。本書でもうひとつ思い出したのは、中島らもの語り口で、こういうのは関西の人のセンスなのかな、とも思う。
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