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岸政彦 『断片的なものの社会学』

断片的なものの社会学
断片的なものの社会学
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岸 政彦
朝日出版社
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ずいぶん社会学の本から離れていた。若者代表みたいな顔をしたいけ好かない社会学者や、先の震災によって発狂した社会学者、セクハラで学校をやめてカルトの教祖になった社会学者などの醜態を見るにつけ「社会学」にちょっと違和感を感じていたこともある。社会学は、ちょっと恥ずかしい学問になりつつある。そんななか、友人が「読んでいて泣いてしまった」とTwitterで書いていたのを目にして興味を持ったのが『断片的なものの社会学』だった。著者は、沖縄や被差別部落、生活史を専門とする社会学者で、本書には発表や論文というアウトプットから漏れてしまった「語り」や「出来事」にまつわるエッセイが収められている。

著者のブログには、こんな記事がある。

板東英二

本書に書かれている大半の話が、これに近い「なんとも言えない話」であり「なんでもない話」だ。良い話でも、悲しい話でもない。どこかおかしい気がするし、実際に笑ってしまうものもある。そして、なぜかとても強く印象に残る。無理やり解釈しようと思えばできなくもなさそうだし、そうした話をストーリーとして提示することも可能だろう。しかし、著者はそういうことはしない。「なんとも言えない」「なんでもない」話の集積によって、実に巧みに、社会で生きること、自分のこと、差別のこと、さまざまな事象を語っている。難しい理論なんてなにもない。社会学者の名前もほとんどでてこない。

毎日生きづらさを抱えて暮らしていた学生時代に、ゼミの先生が書いた本を読んで、少し救われた気持ちになったことを思い出した。それはコミュニケーションや振る舞いに関する本で、そこで用いられている理論的な説明が、自分の生きづらさを説明してくれるような気がしたからだ。事象を理論を通して解釈することで落ち着く。そういうことをして学生時代を乗り越えてきた、ような気もする。そういうのがわたしにとっての「社会学」だった。

『断片的なものの社会学』は、その事象 - 理論 - 解釈のアプローチとは正反対で、ひょっとすると、学生時代のわたしには理解ができない本だったかもしれない。でも、今は、この本に書かれている「なんでもなさ」の集積を、我々の社会を語る社会学として受け止めることができる。それはたぶん、わたしが学校を卒業してからずいぶん「なんでもない人生」を過ごしてきたからなんじゃないか、と思った。

実際、毎日会社に通い、好きなものを飲んだり食べたりしていると、あれほど過去に感じていた生きづらさに考えがいたらなくなる。事象 - 理論 - 解釈のアプローチが不要になった、なんでもない生活。楽なわけではないし、気を抜いていると、うっかり大変なことをやらかしてしまいそうな日常。30歳のわたしが身につけたなんでもない社会経験を通して、本書の「社会とはそういうものである」という記述を受け入れた気がする。同時にそれは、何者でもない自分を受け入れることでもあるような気がした。

とにかく、すごく良い本。久しぶりに息ができないぐらい笑ってしまったし、読んでいて少し泣いた。本書でもうひとつ思い出したのは、中島らもの語り口で、こういうのは関西の人のセンスなのかな、とも思う。

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