アドルノ『社会学講義』を読む(2)

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 1955年、30人。1959年、163人。1962年、331人。1963年、383人。そして1968年、626人――この数字は、フランクフルト大学における社会学主専攻者の数の推移を示したものである。たった13年間で21倍弱という急激な“人口増加”に、アドルノは素朴な驚きを示している。しかし、「喜び」と同時に感じられていたわけではない。大講義室に集まった社会学を学ぼうとする学生たちに、彼は「社会学専攻者は就職難にある」という一つの事実を突きつける(厳しい事実を告げるその言葉は、とても温和で優しく口調である)。


 社会学を学ぶ学生とは、(文字通り)社会について学ぶ人間である。しかし、学生が社会について学べば学ぶほど、その対象としてきた社会へと再編入することが難しくなってしまっている事情が現に存在している。「社会について知れば知るほど私は社会に入り込めなくなるという矛盾」。この矛盾の真相はなんなのだろう?そもそも、そのような矛盾を生み出す社会学とは一体どのような学問なのだろう?


 アドルノの講義は、このようにシンプルで深刻な問題提起からはじめられている。しかし、ここで彼は問題の核心へと急ぐことをしない。まずは、社会学がその研究の対象とする「社会」について語りだす。同時にそこでは社会学が取り組むべき対象の領域についても語られることになる。


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 社会は弁証法的なイメージをもって考察されなければならない、とアドルノは繰り返し述べる。この思考の方法において、「抽象的な理念」と「具体的な細部」とが対立関係におかれている。ここで、その対立関係は、講義と同時期に起こっていた「実証主義」とアドルノやハーバーマスらの「理念的な社会学」との論争と布置されている、と言ってよい。アドルノらに対する実証主義からの批判はこのようなものである。



お前たちの中心概念、社会という概念は、所与のものではない。社会という概念に指を押しあてて確かめることなどできない。(p.65)



 この批判を言い換えるならば「社会はどこにあるのか。そのような不確かなものを研究するという行為自体、学問としておかしいのではないか?」という問いの投げかけになるだろう。確かに「社会とはこれだ」と指し示すことが不可能だ、とアドルノは批判を受け入れるような態度を取りながら、実証主義への反論をおこなっていく。


 社会は「剥き出しの事実として直接に知覚したり、記録したりはできない(p.66)」。けれども、そのように記録できるものだけを集めて、本当に「本質的な」人間集団の姿を描くことができるのか――アドルノが抱いた実証主義への懐疑の根底には、このような意識があるだろう。実証主義が「社会」を描く方法――そこでは具体的な事実(実験結果、統計データ)だけが選択されている――によっては、社会は廃墟としての姿しか浮かび上がらないのではないだろうか。



たとえば、クルップ社について何ごとかを知ろうとする人が、クルップ社の個々の工場をじっくりと見学してみたところで、その機能の本質、すなわち生産の過程、価値増殖の過程、またそれが人々にどういう結果をもたらすかについて、結局、何も知ることはできない(p.65)



 実証主義によっては、社会の本質は描くことができない。しかし、それなのにアドルノと正反対の立場の実証主義が「実践的に見えてしまう」、それが大きな問題である。その「実践的に見えてしまうこと」が実証主義の優位を生み、社会学はそもそもの中心概念である「社会」を捨て去ろうとしているのではないか。


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 アドルノにとっての社会学とは、社会を指し示すことへの不可能性から出発しているように思われる。指し示すことができない、ただそれだけの理由で我々は社会の概念を「非合理なもの」として判断することはできない。というよりも、現に我々は「社会」を認識しているではないか、ゆえに、社会は認識によって規定が可能である、とアドルノは言う。しかし、これは開き直りのようにも響く態度である。


 (つづく)





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