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エド・マクベイン『ノクターン』





 かつて絶大な人気を誇るピアニストとして活躍した老女が銃殺される事件を主軸に、殺人事件がバンバンと頻発するミステリ。「87分署シリーズ」の舞台、アイソラ市に立ち込める雰囲気がものすごい狂気じみて、すごい。


 例えば、あるシーン。そこではひとりのオッサンが「近所を走っている車のクラクションがうるさい」と役所に苦情の電話をかけるところから始まる。でも、なかなか苦情を聞いてくれる相手は見つからない。「回線が大変込み合っております……」という自動メッセージと「その件は部署が違います」という盥回しにオッサンの苛立ちは募るばかり。


 そのうちにオッサンは諦めて電話をかけるの止める。しかし、問題は解決していない――窓の外では依然としてクラクションが鳴り響いている。オッサンは外に出て、クラクションを鳴らしていたタクシー運転手に向かって銃の引き金を引く。


 また、あるシーンでは、まぁそこそこ良いとこの高校に通ってるおぼっちゃん3人(いわゆるプレッピーな)が、ほとんどなんの悪気もなく次々と殺人事件を起こしていく(これが本作品の対旋律となっている事件である)。これが本当に怖い。ほとんどその場のノリと流れだけでまず娼婦1人、黒人2人を惨殺する。とくに娼婦の殺され方が無残である。クスリでハイになりながら、3人で姦している間に「悪ふざけ」で膣内にパン切りナイフを挿入する、という鬼畜っぷり。


 読んでいて、寒々しい気持ちで一杯になるのだけれど、その感覚を増長するのが「どの狂気も妙に現実味を帯びている」ということ。「カッとなってやった。今では反省している」型の事件や、想像力が欠如したバカな高校生や大学生によるとんでもない事件は我々の周りにもゴロゴロしている。


 さらに陰鬱感を醸し出しているのは、白人と黒人との間にある不信感だったりする(その象徴としてOJシンプソンの名前が登場する)。ちなみに作品が発表されたのは1997年。2005年に亡くなったエド・マクベインはこのとき71歳なんだけど、その年齢でここまで「時代感」を持つ作品が書けるのが驚愕である(また、現代はここにある時代感を断絶させることなく引きずり続けているようにも思う)。





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