アドルノ『社会学講義』を読む(4)

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 社会の物象化から「社会学の物象化(社会学への物神崇拝)」へとアドルノの語りは移っていく。ここでアドルノは、なんらかの目的を達成するために独立したはずの社会学という学問が、当初あったはずの目的をすっかり見失ってしまい、学問すること自体を目的としてしまっている部分が少なからず見受けられることを指摘している。



学問の物神崇拝ということで私が理解しているのは、学問の取り組むべき事柄とは無関係に、学問がその根拠連関や内在的な方法ともども自己目的と化する、ということです。(p.220)



 補足だが、ここでアドルノが使用する「物神崇拝(フェティシズム)」とはマルクスから借用された概念である(マルクスにおいては、単なる商品交換のメディアである貨幣が、いつのまにかそれ自体として価値があるものとして認識される事象などを指す)。


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 第二回の講義でアドルノはこのように述べている。



人々にできたのは支配を生き延びることでした。そして、このような社会学の性格、ほとんど生き延びるための科学とでも言いたいような性格が、そもそも昔から社会学には備わっていました。(p.33)



 ここには「より良く生き延びるための手段」としての社会学の性格が見て取れる。アドルノが念頭においていた社会学の「目的」とはこのようなところから察することが出来るだろう。芸術が「自律的な形成物(それ自体に価値があるもの)」として一般的に考えられているのと違って、学問は他律的な形成物、外部へと開かれ影響を与えていくものでなくてはならない。そのような「目的」を果たさなければ、学問は「空虚な思考の遊戯」になってしまう。


(疲れてきたので、中途半端ですが終了します)





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