アドルノ『社会学講義』を読む(3)

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 しかし、アドルノの立場とは必ずしも「実証主義」的な方法論を切り離したものではない。また、自らが批判されるところの「理念的/概念的な社会学」に絶大な自信を持っているわけでもない(そもそもアドルノ自身が、実証/理念という風に二分できるような研究方法を取っていたわけではないのだから)。



社会全体と関わる実践、したがって構造と関わる実践がそもそも有意味で可能なのは、その理念が、たんに部分的な問題設定の枠内にとどまることなく、構造的な諸関係を、したがって現存の社会の内部での構造的な諸関係、傾向、権力状況を原理的に分析する場合のみのことである。(p.54)



 社会の細部を描く実証的データと社会の全体を描く理念/概念。この二つの社会学を弁証法的に用いることで初めて「社会全体と関わる実践」(彼の言葉を用いて言い換えるならば、これは「社会の本質的なものと関わりを持つこと」と同義であろう)を行うことが可能になる、とアドルノは言う。


 本書では、アドルノはこれまでに自分が行ってきた仕事の内容を学生たちに繰り返し語っている。主にそこで触れられているものは『権威主義的パーソナリティ』、『啓蒙の弁証法』との二つがあるが、前者は実証主義的研究、後者が概念的研究と呼ぶことができるだろう――アドルノ自身、自らが語る「弁証法的な/社会全体と関わる実践的な立ち位置」を取っていたのである。


 ちなみに、ここで言われる弁証法とは、あるテーゼとアンチテーゼを綜合させることにより、ジンテーゼへと導くことではない。アドルノがヘーゲルから学ぶ弁証法とは、図式的に描くことが可能なそれではなく、命題Aと命題Bが、永久的な緊張関係を結ぶことであろう。AとBは反発しあう。しかし、それらは相手を相互的に補いながら、どちらに帰結することもなく「本質」を描きあうことになる(どちらか一方によって『全体』を描くことはできない)。



「ほら、ここにきみたちの社会があるよ」と語れるような個々の感覚与件などないにもかかわらず、やはり社会という概念なしですますわけにはいかない(p.68)



 また、そのように「概念」を擁護しつつも、アドルノはその概念が物象化されてしまうことを禁忌とする。



デュルケームの社会学は、本来の社会的事実は個々の感覚与件と同じではないということを十分自覚しているにもかかわらず、他方では、(中略)確固とした所与性という性格を、社会的事実に与えてしまいます。実際これこそが、デュルケームの社会学全体の奇妙な性格です。ここではあることが隠蔽されています。(中略)そのことによって、社会を個々人に還元可能なものにすぎないとみる場合に劣らず、社会の概念はそこなわれているのであって、この見方は個々人をまさに空しい響きとして黙殺しているのです。(p.70-71)



 社会を物象化することによって、その社会を構成しているはずの個人は社会に還元可能な単なる部品となってしまう。このとき、実証主義が廃墟としてしか社会を描くことができないと同様の問題が生ずる。


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 アドルノ自身による「弁証法的な社会の理解」に関する簡潔な言葉を以下に引用する。



社会という概念を簡潔に定義することができないというこの事実、つまり、諸個人の総和か、あるいは有機体のイメージなどにならった即自的な存在か、という二者択一にこの概念が還元され得ず、むしろ諸個人と、諸個人と、諸個人から自立した客観性との一種の相互作用を表しているという事実、これこそが、社会の弁証法的な理解のためのマクロコスモス的なモデル、こんにちよく使われている言葉を借りれば、そのマクロ社会学的なモデルである、と言ってもよいでしょう。(p.72)



 (つづく)





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