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深町秋生『果てしなき渇き』




果てしなき渇き (宝島社文庫)

果てしなき渇き (宝島社文庫)







 今実家のパソコンで感想書いてたんだけど(かなり長めに!)、よくわからないエラーで文章が全部消えたので、すごいやるせない気持ちになっています。


 が、素晴らしい本でした。連鎖的で生々しい暴力描写に、胃の辺りが重くなる感じを抱きながら読んだのですが、この小説が成功しているのはむしろその「不快感/忌避感」が、小説全体を貫いている「ロマンティシズム」と鮮やかなコントラストになっていたからではないか、と思いました。失った家族・失踪した娘を取り戻すために動く、元刑事・藤島の行動は「決して実現することのない不可能性」に取り組むもののように思えます(それが以前のように再現されうるとしても、それは以前と全く同じものではない、あくまで再現されたものでしかない)。その「ロマンティシズム(純愛とかスポ根とか全く無関係な意味での)」がシラケずに描かれたのは、暴力描写の存在が不可欠だったのかもしれません。真っ黒な穢れのなかにあったからこそ、藤島の「祈り」が悲痛なほどの美しさ・強さを持って感じられるような気がします。


 あと重要に思われたのは、安っぽくさえ感じられる日常感。コンビニ、ファミレス、カーラジオで流れてくるBGMの描写(そこにはすべて間の抜けた印象が与えられている)、主人公・藤島の「冴えない感じの風貌」、また舞台が埼玉県であることも日常的な演出に一役買っている(たぶんこれが大都会を舞台にしていたら全然違った印象になっていたはず)。この日常感が、暴力にも愛(かなり屈折しているようにも思うのですが……)にも人間的な温度を与えているのだと思いました。



Fly By Night

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 どうでも良いんですが、この文庫版の表紙を見るたびにRUSHのことを考えてしまいがち……。





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