- アーティスト: バレンボイム(ダニエル),シューマン,ベルリン・シュターツカペレ
- 出版社/メーカー: ワーナーミュージック・ジャパン
- 発売日: 2004/02/18
- メディア: CD
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「シューマンには構成力がない」とよく言われる。「シューマンはキチガイだったからこんな曲しか書けなかったのだ」と言う人もいる(梅毒で脳をやられ、ライン川に投身自殺を図った、というのは事実だ)。そんな風に言われてしまうと「そう聞こえてしまう」のが音楽の不思議なところで、彼が残した交響曲の「唐突さ」(例えば、交響曲の終盤でそれまで全く登場しなかった新しい主題が出てきたりする。音楽の雰囲気もめまぐるしく変化する。京劇のように表情が変化していく)などは「シューマン=キチガイ」説はもっともらしいものに思えてくる。確かにベートーヴェンやブラームスはこんな書き方はしなかっただろう。
しかし、それに対して「シューマンは《着想》の作曲家であった」とアドルノは位置づけている。彼がシューマンと共に名前をあげたのはシューベルトで、実はこの人も「構成力がない」とよく言われている人である(おまけに死因もシューマンと梅毒だったと言われている)。この「着想」という言葉を柔らかい言葉に置き換えるなら、単純に「アイデア」としてしまっても良いものと思われる。シューベルトは生涯に400曲以上の歌曲を書き残し、死んだ。つまり、それだけ旋律を生み出し続けた(それだけのアイデアを持っていた)、ということである。
旋律のアイデアに着眼点が当てられるなかで、構築性や首尾一貫性は後退する。そうであるがゆえにシューベルトやシューマンに対して「構成力がない」ということは無効と化す。また、シューベルトとシューマンとをベートーヴェンやブラームスと単純に比較することもできない。確かにシューマンの交響曲は突拍子も無い。しかし、そこにはベートーヴェンやブラームスにはない旋律の多彩さがある。もしかしたら、シューマンにもベートーヴェンやブラームスのような堅い重厚な音楽が書けたのかもしれない。でも、ベートーヴェンやブラームスがシューマンのように書くことは不可能だったと思う。
交響曲の映像がなかったので《ピアノ五重奏》の映像を(ルノー・カプソン、庄司紗矢香、ミッシャ・マイスキー、エレーヌ・グリモーと超一流演奏家の競演。いくら払えばこんなの聴けるんだ……)。この曲にしても、冒頭のきらびやかな合奏からピアノの独奏に移ったときの「落差」はすごい。首尾一貫性を求める作曲家なら、そこにたどり着くまで倍以上の小節数を使ったに違いない*1。
- アーティスト: ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団,マーラー,テンシュテット(クラウス)
- 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
- 発売日: 1998/03/11
- メディア: CD
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「首尾一貫性の後退」は時代が進むにつれて、より顕著になっていく。特に19世紀末から20世紀初頭にかけての音楽(ロマン派末期)は崩壊寸前のところまでいってしまうものが多い。複雑なのは言うまでも無い。それは使用している楽器の編成が巨大化していったのもひとつの要因なのだが(ベートーヴェンの時代の二倍以上に膨れ上がっている)、その音を生で浴びたときの衝撃力は「首尾一貫性」について考えることを忘れさせてしまう。
ロマン派末期の作曲家が「構築を行わなかった」と言えば語弊がある。しかし、その過度な詰め込み方/積み方が結果として音楽を「理解不可能」なものへと変質させているのである。そういう「わけのわからなさ」に関して言えば、後期のマーラーが群を抜いていた。もちろん、リヒャルト・シュトラウスを忘れてはいけないのだがリヒャルトの音楽が「崩壊寸前」で止まり、過剰な美のなかに留まっているのに対して、マーラーは本当に音楽を「崩壊」まで持っていってしまう。それも最後の交響曲第9番で。
この作品での、こどもが積み木を崩すような書きぶりは、マーラーが「着想」から「遊戯」へと跳躍した作曲家であることを感じさせる(また自らの「着想」と他人の曲/俗謡などの「素材」を組み合わせながら交響曲を作り続けたところにもそれが現れているようにも思う)。それが発している理解の困難さは、後に現れたシェーンベルクよりもずっと重い。マーラーは謎だ。
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