スキップしてメイン コンテンツに移動

フョードル・ドストエフスキー『悪霊』(下)




悪霊 (下巻) (新潮文庫)

悪霊 (下巻) (新潮文庫)







 スタヴローギンという主人公は、小説内の登場人物からは徹底して理解されえない「他者」、そして「外部」として描かれている。物語の語り手である「私」(事後的に事件を語る特権性を持つ。また、彼に関しては『無名の存在』であることが徹底されている)にもスタヴローギンは受け入れがたい、得体の知れない、不気味な人物として語られる。唯一、彼を受け入れようというものは『スタヴローギンの告白』という箇所に登場するチホンという修道士のみだ。しかし、隠者のように暮らす彼もまた主要な登場人物(つまり、街の人間)にとっては外部に位置するものである。実を言うとチホンが登場する部分は、発表当時はカットされていた部分なので触れて良いものかもわからない。となると実質的に言って、「街」のコミュニティのなかに彼を(理解しえる対象として)受け入れることができた人物は一人もいなかったことになる。


 この小説のなかには「空想主義的社会主義者の秘密結社」が登場するのだが、これもまた「街」のコミュニティのなかでは「よくわからないもの」として描かれている。小説中で次々と巻き起こる事件の多くは、その組織のメンバーたちによって仕組まれている。しかし、メンバーのほとんどが自分たちに「指令」を出している「はず」の組織本部のことをよくわからないままに動いている(『本当にそんな組織があるのか』と疑いだす人物さえいる)。とにかく指令は外部から出されているらしい――そういうあやふやな感覚で様々な「計画」が実行されていく。「人を殺すのは納得がいかないが、とにかくそれが組織のためらしいからやるしかない」、そういう屈折した信念、あるいは全く組織の思想と関係がないところで暴発する感情によって殺人や放火がおこなわれていく怖さがある。「街」も次々と起こる事件の裏側には「どうやらお上に謀反を働くヤツらがいるらしいぞ」と感づいてはいるが、とにかく実態がつかめない(このあたりはほとんどピンチョンみたいにも読める)。


 スタヴローギンと「組織の本部」(本部と直接つながっているのは『どうやら』ピョートルという人物だけ『らしい』)、街はその二つの「外部からやってきた『なんだかよくわからない存在』」の登場によってパニックに飲み込まれることとなる。「きっとアイツらがやったに違いない!」と町の人間は叫ぶ。しかし、彼らは「よくわからない存在」なので、うまく対象化することができない。むしろ「わけがわからないヤツらが動いている」という想像をするこによって恐怖は増大し、ますますパニックが大きくなっていく(暴徒と化した群集はスタヴローギンの情婦だと噂された無実の女をリンチして殺してしまう)。そして、そのパニックは、事件を裏で仕組んでいたはずの(ピョートル以外の)メンバーにも感染していく。


 以上のようなところで、私は『悪霊』を読みながら、ヒッチコックの『鳥』を思い出していた。だから何だ……という話だが、この本に関して今日はここまで。あまり面白いモノを読みすぎるとうまく書くことがまとまらなくて(いつも以上に)困ることとなる。もうひとつ思い出したことがらがあったんだけれど、それについてはまた今度。読後の「後味の悪さ」は最狂な作品である。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...