フョードル・ドストエフスキー『悪霊』(上)

0 件のコメント



悪霊 (上巻) (新潮文庫)

悪霊 (上巻) (新潮文庫)







 世間ではドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』が特異的な売れ行きを示していることが話題になっている。「軽いもの」、「便利なもの」、「楽なもの」に人気が集まる一方で(ケータイ小説、ライト・ノベル……etc)、重厚なものも読まれていることに少し安心する。おそらくケータイ小説を読む人は『カラマーゾフ』なんかに手を出すことがなく、『カラマーゾフ』を読んだ人はケータイ小説なんか全然興味が無いのだろう。「重いもの・長いもの」が読めるか読めないか、そこには歴然としたリテラシーの格差が表出しており……などと朝日新聞の紙面で香山リカなどが言い出したらここぞとばかり、鬼の首でも取ったように叩かれることは必死な今日この頃である。


 奇しくもドストエフスキーの『悪霊』を読んでいるところ。さっき上巻を読み終えたのだが、キチガイみたいな登場人物ばっかり出てきて面白い。この作家の小説を読んでいて毎回そういう風に思う。どの登場人物も性格の「ある部分」にオーバードライブがかけられていて異常である。そういう異常者たちがガチでぶつかり合って、物語の回転速度と温度を高めていく感じが面白い。


 唯一マトモなのは人間模様を俯瞰し、記述している語り手のみ。しかしこの語り手も『悪霊』ではちょっと変わった立ち位置を持っているような気がする。というのも部分によって「舞台に参与している『私』が語」ったり、「過去にあった舞台を(小説内の出来事を既にもう全て知っている)『私』が語」ったりで目まぐるしく立ち位置が変化するのである。


 面白いのは後者の「過去にあった出来事を語っている私」の語り口で、(特に冒頭部分で顕著なのだが)やたらと話を脱線させる。それが「先に言っておくけど、これから書かれている事件にはこういう背景があるんですよー」という指摘だったりするのだが、結構「実はあんまり関係ないんですけど言っておきます……」みたいな脱線の仕方もさせている。この無意味な脱線の仕方が独特の「うねり」を作っていて興奮してしまった。クライマックスの前でいきなりテンポを落とす指揮者のようである。





0 件のコメント :

コメントを投稿