スキップしてメイン コンテンツに移動

阿部和重『グランド・フィナーレ』




グランド・フィナーレ (講談社文庫)

グランド・フィナーレ (講談社文庫)







 ぼんやり上手さん(id:ayakomiyamoto)の日記でずいぶん前に阿部和重が面白く紹介されていたのが、ずっと頭のなかにあったんだけれど、機会を逃し続けていてやっと読むことができました。面白かったです!


 この小説が面白く読めたのは、主人公視点で語られる地の文と他の登場人物が語る会話文との文体に大きな差があったからだろう、と思います。会話文はとても生き生きとしていてすごくリアリティがある文章で成り立っているのも(最近の小説を読んでいない)私には新鮮でしたし(村上春樹の会話文にはこういうリアリティはありません)、また地の文のインチキな批評文くさい、はっきり言って過剰な、修飾の用い方も面白かったです。例えば、こういうの。



そのお宝に宿ったマルチメディアの精霊は、悦びや思慕の情を引き出すことよりもさらに熱心に、わたしに対してある残酷な忠告を囁きかけてくるのだった。



 「マルチメディアの精霊」――これはナボコフが男性器を「情熱の勺」(『ロリータ』大久保康雄訳)と表現したのを読んだとき以来の個人的ビッグヒットとなったわけですが、その「過剰さ」が主人公の「思い」が並々ならぬものであることの演出として上手く作用しているように思いました(そういえば『ロリータ』も『グランド・フィナーレ』もロリコンを取り扱った小説だ)。それから、その冷静な饒舌さは主人公の自分勝手な「他者観」も裏付けるような気がします。


 主人公の他にも、とにかく自分勝手な人たちがいろいろと出てくる小説で、それぞれの「理解のされなさ」の構図も面白いです。例えば第一部のクライマックスとなっている、Iというクラバーの女の子が主人公から自分の性癖とそれにまつわる話を聞きだす、というシーンに関してもそう。その前のシーンで、Iは「悲惨だと思うけれど、自分ではどうしようもないし、大した悩み事でもないこと」の一例のようにアフリカの紛争の話をしていて、その会話が本当に「雑談」っぽくて酷いのだけれど、主人公の告白を聞いて「私は軽蔑した」と面と向かって主人公を非難する。この身勝手な正義感の駆動の仕方は、第二部の主人公にも読み取ることが出来ます。


 でもその「身勝手さ」はベタに現れているわけではなく「私にはそういう行為をする権利がないと思われるかもしれないけれども、少なくとも私自身は権利があると思っているし、所詮他人が思っていそうなことなどは『私の想像』なのかもしれないのだから一旦そこに考えをめぐらすのをストップして、行為をおこないます」というような、留保や迂回を行いつつも身勝手な行為に接続されていく、そういう複雑な構造を描いているようにも思われました。そういうのはすごく現代っぽい。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...