スキップしてメイン コンテンツに移動

ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ『コスモス』(工藤幸雄訳)




コスモス―他 (東欧の文学)
ヴィトルド・ゴンブロヴィッチ 工藤 幸雄
恒文社
売り上げランキング: 165993



 「面白かった!」とまず一言。そして「狂ってる!」と次に一言。「ゴンブロヴィッチはすごいよ……」と聞いていたが、こんなに恐ろしい作家だったとは……。最初は、切れ切れと続く奇妙な文体が目に付いたけれど、内容は文体以上にキチガイ染みている、というか、ほぼキチガイの小説である。探偵小説やミステリといった体裁を一応とりつつも、ほぼ全体に渡って主人公、ヴィトルド(この登場人物にどれだけ作家本人が重ねられているのかはよくわからない)の意識の流れに沿って物語は進み、唐突に哲学的な問いかけが挿入されたり、かなりシュールな場面展開が繰り広げられたりとかなり込み入った内容となっている。


 すさまじいのはヴィトルドによる「関係性」に対してのパラノイアであろう。冒頭、ワルシャワから訳あって友人と連れ添い田舎町へと逃げてきたヴィトルドは、ちょうど良い下宿を探している途中、木に「スズメの死骸が首吊りになっている」という異様な光景を目にする。誰がなんのためにこんなことを……このスズメが物語を推進させるひとつのマクガフィンとなるのだが、これがヴィトルドによって「何か」と結び付けられることによって、物語には混沌が訪れる。


 たとえば、下宿で遣われている下女の醜いキズが残った唇、これがスズメと関係があるのではないか?――とヴィトルドは考える。この妄執によって、探偵小説としての物語はほぼ破綻としてしまっているといいのだが、面白いのは「スズメと唇が関係がないとは言い切れない」という可能性にヴィトルドがとりつかれていく点だろう。たしかに、物語上スズメと唇には「関係がない」と完全に言い切ることができない。あらゆる可能性は残されている。



ぼくのこの物語の続きを語るのはむずかしい。だいいちぼくは知らない、これは物語なのか。いくつかの分子の絶えざる……結合および分裂……これをしも物語と名づけるのは無理である……



 『コスモス』においてあらゆる可能性がヴィトルドの前にあらわれ、そして、それらは最後まで打ち消されることなくヴィトルドを悩ませ続けることとなる。通常、論理的な思考の積み重ねによってある物語は推進される(犯人は○○という理由において、Aではない、というような)のだとしたら、ここではあらゆる論理的な分子が進むことなく、打ち消されることなく物語に蓄積されていく。この反-物語的な過程を物語として成立させている点がこの小説の斬新な点なのだろう。蓄積が崩壊へと向かって物語にカタストロフが訪れているのも見事な書き方だと言える。


 トマス・ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』から、パラノイア的な部分を抽出したような……そういう小説が読みたい、という方には是非オススメしたくなる作品だった。





コメント

コメントを投稿

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...