昨日書いたエントリについて「論理的/非論理的」という区分けについて、過剰に反応されている方がいらっしゃったのでここで補足。私が不用意に「言語的≒論理的」、「非言語的≒非言語的非論理的*1」と不用意に繋げてしまって書いたので、おそらくそのような誤解が生じているのと思われるのだが、ここで私は「非論理的コミュニケーション」というものを、プラトン、あるいはアドルノにおける「模倣(ミメーシス)」という概念を前提に考えている。
ミメーシスについて、過去に以上のようなエントリを書いた(前者はプラトンの、後者はアドルノの)ので、ここで説明を繰返すようなことはおこなわない。しかし、非言語的コミュニケーションはあくまで非言語的コミュニケーションなのであって、それは言語的な枠組みでは捉えきれないものである、ということだけ繰返しておきたい。それは「(私の思考能力が追いついていないせいで)言語的に説明できない」という話ではないのだ。音楽について書いた文章が、決して音楽にならないように、非言語的コミュニケーションを言語的に《理解する》ことは不可能である、と私は考える。
また、ミメーシスは論理という過程を飛び越えて、理解へと至る。この意味で「非論理的コミュニケーション」と呼ぶことは充分可能である(ように思う)。例えば『崖の上のポニョ』での模倣の場面を思い返して欲しいのだが、そこでは「箸をつかってラーメンを食べると、手も汚れないし、暑くも無くて便利だし、美味しい」という、「AはBだからCだ」という過程は踏まれていない。「宗介が箸を使ってるのを真似してみたら、美味しかった」という理解が描かれている。
宮崎駿の「過去の作品」を「想起」するにあたって、「物語性で言えば『風の谷のナウシカ』、テーマ性で言えば『もののけ姫』」????? えええええ!? こりゃまた素敵な選択だなwww
こおゆう物言いをする奴ぁ、まったく信用できんwwww ストーリーのはっきりしない映画を見ると、必ずこういうこと言い出す奴が出てくるwwwww 「言葉で語るための映画」でないなら、何故エントリ上げる??
「言語的なコミュニケーション」は「論理的」で、「非言語的なコミュニケーション」は「非論理的」なのかいwww じゃ、「ポニョが宗介を模倣することによって、人間としての経験を積んでいく」行為は「非論理的」なんだなwwww それのどこが「非論理的」なのか、説明してもらおうじゃねえかwwww
(消毒しましょ!より)
ちょっと思い切った話をするとたまにこういった「(ちゃんと文章を読んでいないのに)プゲラとかいいたがる人」というのが現れるものだが(だってねぇ……『ものすごくシンプルな物語だ』といってるのに『ストーリーのはっきりしない映画を見ると、必ずこういうこと言い出す奴が出てくる』という反応はないでしょう……えーと、文盲ですか?)、「説明してもらおうじゃねえか」とかおっしゃるので説明してみた。
また、
「言葉で語るための映画」でないなら、何故エントリ上げる??
という質問に答えるならば、文脈を読め、ということになる――あくまで私は「(既存の宮崎駿作品について用いられてきた)言葉」ではなく、もっと別な言葉が必要なのだ、という話をしている。だからこそ、私は「別な言葉」――目で観、耳で聴くための言葉――を提示するために、エントリを書いている。
もし「こんな考えには納得できない」というのであれば、今度はあなたの考えを見せて欲しい、と思う。解釈に正解は存在しない。私はあなたに対して否定をおこなわない。けれども、その文章が面白いか/面白くないか、の評価はおこなうだろう。少なくとも精神分析的手法を用いた文章や、製作者の性癖と作品を結びつけた文章には、私はあまり感心しないと思う――立派なことを言ってそうに見えるだけで、その文章はまったく作品が与える感動を伝えていないからだ*2。
以前の話を暴力的にまとめてみます.アドルノ以前には「音楽批評」というのが二つあった.ひとつは,音楽を作曲家の内面やその歴史に帰すようなもの,もうひとつは,ただ楽譜の音を分析するだけのようなものだ.その二つを退けて,アドルノは違う道を示したのだと思う.議論の前提として,貴方が主張していたことで興味深かったのは,アドルノが楽譜中心主義を採用していたことだ.アドルノにとって,音楽というのは楽譜が(差異を生み出しながら)反復されたものだというのだ.少し過剰な解釈になるかもしれないけれど,楽譜が演奏者を通して音楽を生み出す,という風に考えたほうがいいのかもしれない.運動しているのは,楽譜に書かれた記号それ自体であって,音楽家のほうではない.この音楽のアドルノ的理解は,デリダが,記号の反復(的運動)が重要であり,それに対して記号の「意味」は,遡及的に見出されるものでしかない,と主張したこととパラレルなのではないか,と考えられた.記号の「意味」が,単なる記号の(散種的)運動の結果に過ぎなかったように,音楽家の演奏も,ある楽譜の運動の結果に過ぎない(この図式でいうと,音楽の「意味」というのは,楽譜の運動の結果としての,音楽家の演奏のことであって,それに対する言語的な解説ではないことになる).ここまでは非常に簡単な議論だ.問題なのは,この音楽の原理的な話と,それを論じる際の言語的な表象が,いかなる関係にあるのか,そしてないのか,ということであって,そこを語るのに mk さんは(というより,アドルノ本人が)「ミメーシス」という,確かに危うい概念を導入することになっている.つづく.
返信削除なぜ「ミメーシス」なる概念が導入されるかというと,アドルノが「音楽」と「言語」を,基本的に「共約不可能」な二つの原理として考えたからだ.この点で,アドルノの議論は,デリダと様相が異なってくる.というのも,デリダの議論は,(良い意味でも悪い意味でも)言語というか記号(あるいは,法)の問題に還元されて,言語(=法)中心主義なのに対して,アドルノは,それとは別に「音楽」という原理を導入するからだ.「音楽」と「言語」は,本来共約不可能なのにもかかわらず,多くの人は,あたかも「言語」によって「音楽」が表現可能だと考えている.アドルノによれば,言語によって音楽を語ることは,単に音楽的なるもの捨象して,言語の原理へと暴力的に還元しているに過ぎない,
返信削除ということになる.mk 氏が,「映画(というか映像)」が「言語」に還元できない,あるいは「言語的なものではない」といったのは,「音楽」と同じく,そこで語られている「言語」が,「映像」と共約不可能なものでしかないからだ.
この「共約不可能性」は,インテリぶって言うと,ウィトゲンシュタインが「言語のパラドックス」として語ったことと,幾分似ている.本来共約不可能なものが,なぜ一方が他方を「理解」できているかのように考えられるのか?「言語」によって「音楽」が理解できているように思われるのか?ウィトゲンシュタインは「規則に従うことはひとつの実践である」といったけれど,mk さんが考えたのも,同じことだ.「ポニョが宗介を模倣することによって,人間としての経験を積んでいく」のは,「規則」の「理解」というのは,それを「語る」ことではなく,行動的に「示す」ことでしかないからだ.
素晴らしいまとめありがとうございます。毎度、私より正確に私の書きたいことを書いてくださるので助かります。というか、ここまで議論がまとまっているとなると、あとは書くだけ、という感じな気もしてきました(本当に『書く』という宣言ばかりで申し訳ない気持ちになります)。
返信削除それにしても『楽興の時』、どこにいったんだろう……。
「言語のパラドックス」ではなく,「規則のパラドックス」です.お恥かしい.
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