このエントリを書くに当たって、既刊のBOOK1・2について書いたエントリ*1を読み直してみたが、そこで考えていたこととはまるで別なことをBOOK3を読んでいて考えさせられる。普段からいい加減な読書しかしないから、今回の村上春樹の新作を読む前に既刊を読み返すことなどしておらず、これまでのストーリーもあまり覚えていない状態だった、ということももちろんある。しかし、実際にBOOK3から、作者が「仕切りなおし」をおこなっているようにも感じられた。作者はインタビューでこの作品について、ヨハン・セバスチャン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を想定しながら書いた、と語っていた。かの大バッハの作品は2巻まで存在するけれど、バッハがこの作品集を最初から「2巻出そう」と想定していたわけではなかろう。まず先に1巻の24曲を書き、評判が良かったし、上手く書けたから2巻目に着手した。まぁ想像にすぎないが、そんなところではないだろうか。そういうわけで『1Q84』についても、BOOK1・2で完結していてもおかしくなかった、と私は考える。最初、その仕切り直し感にうまく馴染めず、どうしたものかと思ったのだが、親切な「振り返り」が作中に織り込まれため、だんだんと馴染んだ。そうして結局は「素晴らしい作品だ」と結論付けるにあたった。自分の作品の世界観をちゃんと明確に提示できる作家の技量に、もっと驚愕すべきなのではなかろうか。
BOOK3の世界は、既刊よりもシンプルだ――というよりも、これまでにバラ撒いてきた謎を説明してきているようにそう感じるのかもしれない。なんだかわからない不気味な、権力的存在であった「リトル・ピープル」は、世界の原理であることが示される。もちろん、その世界の根本原理は、現実的なものとは違う。その違いは、ふかえりという少女を媒体として、青豆が天吾の子を授かる、という超常現象的な現象がおこることでもわかる。また、その違った根本原理がしかれた世界の象徴として、1Q84年には空に二つの月が浮かんでいる。しかし、ここで描かれるフィクションの世界は、単にお話の舞台などではないようにも読める。逆説だが、違った原理がしかれた世界を作者が描くことによって、我々がいる現実的な世界にもある種の原理がしかれていることを作者は主張しているのではないか、と思われるのだ。それをシステムの暗喩と捉えていいものかどうかはわからない(世界はシステムを内包するものだ)。その原理が示す世界の成り行きは、良いものなのか、悪いものなのか、我々には判断することができないことだけは確かだ。それが原理であるがゆえに、その原理が良いものだ、と仮に(人格を与えて)判断するならば、それは原理的には良いものであるし、それがその原理がしかれた世界に生きる人間の価値観からズレたものだったとしてもおかしくはない。スピノザ的な世界観、とでも良いのだろうか。スピノザの感覚で言えば、現実は常に正解*2なのである。その現実はいかにハードだったとしても。
一方、ここでそういった原理に対立するものがいる。BOOK3の青豆ははっきりとその原理に対して、異を唱える。彼女は自分の意思、世界の原理ではない自分の原理を尊重する。その反抗には、天吾も加担することになる。なぜ、そのようなことが可能なのだろうか?――世界がそのような原理をもっているならば、彼女たちはその原理に従わなくてはならないはずだ。なんといっても、彼女たちはその世界の一部なのだから。だが、彼女たちが世界に反抗できる理由もまた明確であろう。彼女たちは、別な世界からその世界にやってきた人物なのだから。そうであるからこそ、ひとつの物語のなかで、いわば(宮台真司の用語系を用いれば)「主意主義と主知主義の対立」が可能となる。世界はすべてなんらかの原理にしたがって動いているという立場と、いや、そうじゃない人間の個々の意思によって世界は成立しているという立場の対立。ちなみに私はどっちが主意主義で、どっちが主知主義かいつも忘れてしまうのだが……。
BOOK3の終わりではまだ、この対立する二項のどちらが最終的に「勝利」を収めるのかはわからない。とりあえず、青豆と天吾は出会い、そしてリトル・ピープル的な世界からは脱出した。しかし、青豆と天吾の子はどうなるのだろう? リトル・ピープル的な世界で生まれたものは、その世界に戻らなくてはならないような論理が働くのかもしれない。または、彼女たちが脱出した先の世界にもまた別な原理があるのかもしれない。それはおそらく書かれるであろう、BOOK4を待たねばならない。こうして待たされることだけでも貴重な経験だ。見かけよりも遥かに大きなものごとが、この物語には含まれているように思う。遥かに大きいだけに、実は中身がスカスカ、ということも十分ありうる。今のところは、楽しく読めた。やはり、村上春樹は特別な作家なのだ。
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