スキップしてメイン コンテンツに移動

村上春樹『1Q84 BOOK3』




1Q84 BOOK 3
1Q84 BOOK 3
posted with amazlet at 10.04.30
村上春樹
新潮社 (2010-04-16)
売り上げランキング: 3


 このエントリを書くに当たって、既刊のBOOK1・2について書いたエントリ*1を読み直してみたが、そこで考えていたこととはまるで別なことをBOOK3を読んでいて考えさせられる。普段からいい加減な読書しかしないから、今回の村上春樹の新作を読む前に既刊を読み返すことなどしておらず、これまでのストーリーもあまり覚えていない状態だった、ということももちろんある。しかし、実際にBOOK3から、作者が「仕切りなおし」をおこなっているようにも感じられた。作者はインタビューでこの作品について、ヨハン・セバスチャン・バッハの平均律クラヴィーア曲集を想定しながら書いた、と語っていた。かの大バッハの作品は2巻まで存在するけれど、バッハがこの作品集を最初から「2巻出そう」と想定していたわけではなかろう。まず先に1巻の24曲を書き、評判が良かったし、上手く書けたから2巻目に着手した。まぁ想像にすぎないが、そんなところではないだろうか。そういうわけで『1Q84』についても、BOOK1・2で完結していてもおかしくなかった、と私は考える。最初、その仕切り直し感にうまく馴染めず、どうしたものかと思ったのだが、親切な「振り返り」が作中に織り込まれため、だんだんと馴染んだ。そうして結局は「素晴らしい作品だ」と結論付けるにあたった。自分の作品の世界観をちゃんと明確に提示できる作家の技量に、もっと驚愕すべきなのではなかろうか。




 BOOK3の世界は、既刊よりもシンプルだ――というよりも、これまでにバラ撒いてきた謎を説明してきているようにそう感じるのかもしれない。なんだかわからない不気味な、権力的存在であった「リトル・ピープル」は、世界の原理であることが示される。もちろん、その世界の根本原理は、現実的なものとは違う。その違いは、ふかえりという少女を媒体として、青豆が天吾の子を授かる、という超常現象的な現象がおこることでもわかる。また、その違った根本原理がしかれた世界の象徴として、1Q84年には空に二つの月が浮かんでいる。しかし、ここで描かれるフィクションの世界は、単にお話の舞台などではないようにも読める。逆説だが、違った原理がしかれた世界を作者が描くことによって、我々がいる現実的な世界にもある種の原理がしかれていることを作者は主張しているのではないか、と思われるのだ。それをシステムの暗喩と捉えていいものかどうかはわからない(世界はシステムを内包するものだ)。その原理が示す世界の成り行きは、良いものなのか、悪いものなのか、我々には判断することができないことだけは確かだ。それが原理であるがゆえに、その原理が良いものだ、と仮に(人格を与えて)判断するならば、それは原理的には良いものであるし、それがその原理がしかれた世界に生きる人間の価値観からズレたものだったとしてもおかしくはない。スピノザ的な世界観、とでも良いのだろうか。スピノザの感覚で言えば、現実は常に正解*2なのである。その現実はいかにハードだったとしても。





 一方、ここでそういった原理に対立するものがいる。BOOK3の青豆ははっきりとその原理に対して、異を唱える。彼女は自分の意思、世界の原理ではない自分の原理を尊重する。その反抗には、天吾も加担することになる。なぜ、そのようなことが可能なのだろうか?――世界がそのような原理をもっているならば、彼女たちはその原理に従わなくてはならないはずだ。なんといっても、彼女たちはその世界の一部なのだから。だが、彼女たちが世界に反抗できる理由もまた明確であろう。彼女たちは、別な世界からその世界にやってきた人物なのだから。そうであるからこそ、ひとつの物語のなかで、いわば(宮台真司の用語系を用いれば)「主意主義と主知主義の対立」が可能となる。世界はすべてなんらかの原理にしたがって動いているという立場と、いや、そうじゃない人間の個々の意思によって世界は成立しているという立場の対立。ちなみに私はどっちが主意主義で、どっちが主知主義かいつも忘れてしまうのだが……。





 BOOK3の終わりではまだ、この対立する二項のどちらが最終的に「勝利」を収めるのかはわからない。とりあえず、青豆と天吾は出会い、そしてリトル・ピープル的な世界からは脱出した。しかし、青豆と天吾の子はどうなるのだろう? リトル・ピープル的な世界で生まれたものは、その世界に戻らなくてはならないような論理が働くのかもしれない。または、彼女たちが脱出した先の世界にもまた別な原理があるのかもしれない。それはおそらく書かれるであろう、BOOK4を待たねばならない。こうして待たされることだけでも貴重な経験だ。見かけよりも遥かに大きなものごとが、この物語には含まれているように思う。遥かに大きいだけに、実は中身がスカスカ、ということも十分ありうる。今のところは、楽しく読めた。やはり、村上春樹は特別な作家なのだ。






コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か