スキップしてメイン コンテンツに移動

集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#6 ムヒカ=ライネス『ボマルツォ公の回想』




ボマルツォ公の回想 (ラテンアメリカの文学 (6))
ムヒカ=ライネス
集英社
売り上げランキング: 788957


 第6巻はアルゼンチンの作家、マヌエル・ムヒカ=ライネス(1910-1984)の『ボマルツォ公の回想』を収録。2段組で600ページを超える超大作なので(これは集英社の『ラテンアメリカの文学』シリーズでも最長クラス)、少し読むのに時間がかかってしまったが、大変面白い小説だった。実在した16世紀のイタリアの貴族、ピエル・フランチェスコ・オルシーニの回想という形をとる一大歴史小説である。この時代と言えばイタリアのルネサンス真っ盛り。先日、『ミクロコスモス』*1を読み終えた私としては、パラケルススやフィチーノといった名前が出てくるのが嬉しかった。しかもこの小説ではパラケルススが結構重要な人物として登場する。





 オルシーニ家は名門貴族、主人公、ピエル・フランチェスコの祖父は枢機卿であるし、父親はものすごく勇敢な武人であった。そこにピエル・フランチェスコが生まれてくる。せむしの男として。この障害を持って生まれてきた、ということが主人公が辿った数奇な運命の原点である。主人公には、父親譲りのマッチョな兄と、マッチョではないが正常に生まれた弟がいる。障害があるのは主人公一人である。名門貴族、という誇りから障害をもって生まれてきた主人公は「生まれてきてはいけない存在」として扱われてしまう。ある日、祖父と父親が「ウチの家系にあんなのが生まれてくるわけない。きっとアイツの母親がどっかで不義を働いていたにちがいない!」と話し合っているのを聞いたりしちゃったりする他、主人公は散々な目にあう。兄にも弟にもイジメられるのだが、父親は見てみぬ振りを決め込む。主人公の母は、死んでしまっていて、彼を守ってくれるのは年老いた祖母しかいない。読んでいて、かなりしんどくなってくる展開である。しかし、この祖母を主人公を守ろうとする優しさがとても良い。





 主人公にとって祖母の存在は、守護神的なものだ。その場所にたどり着きさえすれば、主人公は必ず守られる。だから切実にその場所を守ろうとする。しかし、時は流れてゆく。主人公も男である。兄や弟が自分の領地に住んでいる女を相手に何をしているか、これを主人公は知っている。しかし、自分にはできない。別に生まれついての性的不能ではないのにも関わらず、自分のせむしという性質から不能に追い込まれていく。本来であれば、祖母が自分を守ってくれる重力圏から出たい。しかし、自らが課している「自分は醜い」という観念がそれをことごとく邪魔をしていく。本当はサッサと童貞を捨ててしまいたいのだが、彼の意思に反して肝心なときに立たない。鏡に映った自分の姿を見て、萎えてしまう。ここがすごく良かった。なんか色々あって、ぜんぜん美人じゃない太ったおばさんに、ほとんど強姦みたいに襲われて、童貞を捨てちゃう、ってところも含めて最高。





 で、いろいろあって主人公は立派な領主になり、結婚したり、子どもが生まれたりするんですが、求めていたものを手に入れるたびに幻滅したり、または、自分が持ってる障害のせいで求めているものが手に入らなかったり……というのを繰り返していく。これって『失われた時を求めて』と通ずるテーマだと思う。魔術的な色に彩られた個人史文学でありながら、恐るべき歴史文学として成立しているところがスゴい(終盤、主人公はレパントの海戦に参加するのだが、そこでセルバンテスと会ったりする)。ネット上には『ボマルツォ公の回想』総名彙なんていうシロモノが用意されているのだけれども、これを作った人がそれだけいれあげるのも納得の傑作だ。






コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」