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80年代末からの安全地帯を聴く




安全地帯VI~月に濡れたふたり
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 以前ニップル騎士団というバンドを主宰していた際、そのバンドのヴォーカリストが安全地帯に対するリスペクトを表明していたことを最近になって思い出し、見つけたアルバムから聴き漁る日々が続いているのだが、日本のバンドでこんなにカッコ良いバンドがいたのか……と聴くたびに驚かされるばかりだ。特に80年代末期からのAORとピーター・ガブリエル経由で輸入されたエスニックっぽい要素が歌謡曲と混合するのがツボすぎて、高揚が止まらなくなる。



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 1988年『安全地帯VI~月に濡れたふたり』より「Shade Mind」。イントロからアフリカンなパーカッション+ホーミーという展開に度肝を抜かれる。



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 同じく『安全地帯VI~月に濡れたふたり』より「悲しきコヨーテ」。これもシンセベースの音がごんぶとで大変なのだが、突然挿入されるストリングスのブレイクからアーム多用のフリーキーなギター・ソロに流れ込むのがヤバすぎ。



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 1990年『安全地帯VII~夢の都』より「プラトニック > DANCE」。このアンプラグド・ライヴも最高にカッコ良いんですが、アルバム収録のバージョンは、逆回転再生エフェクトを使ったギターのめちゃくちゃキレイなハーモニーから始まって聴くたびに鳥肌がたつ。このアルバムの音は全体的に80年代末期のYESっぽいところがある(どちらかというとYESっつーか、ABWHを思い出すのだが、それぐらい壮大なロック・アルバムなんだよ!)。



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 1991年『安全地帯VIII~太陽』より「1991年からの警告」。こうしてエントリを書きながら、なぜこんなにもこの時期の安全地帯が自分のツボにハマるのか、を考えていて、彼らがほとんど同時期の「プログレの人がポップ化したバンド」につながる音を奏でていたからではないか、と思い当たる。バグルスと合体したあとのYESとか、ASIAとか、とくにGTRなんか雰囲気が近い気がするぞ。



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 GTR「When The Heart Rules the Mind」。つまり、ギターがこの時期のスティーヴ・ハウっぽい、ということか……。



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 安全地帯に戻って『安全地帯VIII~太陽』より「エネルギー」(映像は96年、玉置浩二のソロ名義になってからのライヴ)。それにしても玉置浩二のパフォーマンスに触れれば触れるほど、天才すぎてこの人は何をしても良い人なんじゃないか、と思う。





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