スキップしてメイン コンテンツに移動

井筒俊彦『神秘哲学』を読む #1




神秘哲学―ギリシアの部
井筒 俊彦
慶應義塾大学出版会
売り上げランキング: 130301



 慶應義塾大学出版会よりようやく井筒俊彦の『神秘哲学 ギリシアの部』が復刊されました! ホントはたしか今年の7月に刊行される予定だったんですよね。約半年遅れのリリースの裏側には何があったか分かりませんが、年内に手に入って嬉しい。早速読み始めました……が、これはなかなか手ごわい本でして、ちょっと読みにくいところがあります。何しろ、最初に出版されたのは1949年ですから約半世紀前の格調高い日本語となっており、新かな遣いが採用され、漢字も新字体となっていながらも、おそらくフォントが存在する漢字についてはママとなっていて、見たことがない漢字がちょいちょい出てくる。内容はやはり『意識と本質』を書いた大先生の仕事ですから、おそろしくクリアな整理がされているのですが、こうした表現の問題(?)が21世紀を生きる我々にはちょっとした障害として現れてくる。半世紀後ですらすでにこの有様なのですから、あと少ししたらこうした知的な遺産を読める人の数はどんどん減っていくのではないか? と心配になってきますが、それはまた別な話。今後の日本語教育を考えたい人たちにそうした話はお任せして、ここでは井筒俊彦のテキストを丁寧に読んでまいりましょう。これは井筒の格調高い日本語を、私の格調低い日本語へと翻訳する試みでもあるかもしれません。





 さて、本書『神秘哲学』はどういった書物であるのか。副題に「ギリシアの部」とありますが、これは当初井筒が西洋の神秘主義の歴史を書こうとしていた証と考えられているようです。その仕事はその後彼の関心が別な領域へと移ったことによって、この「第一部」である「ギリシアの部」のみが残ることになった、というわけですね。目次から見て行きますと、これは4章立てて構成されたもので、各章はそれぞれ「ソクラテス以前の神秘哲学」、「プラトンの神秘哲学」、「アリストテレスの神秘哲学」、「プロティノスの神秘哲学」と題されています。これが300ページぐらい。本書ではこれに附録として「ギリシアの自然神秘主義」という作品もついてくる。これが200ページぐらい。しかし、なぜ神秘主義なのか。井筒は序文において、この神秘主義というものが哲学の発展に必要不可欠なものであったことを説いています。それはなぜか。まず井筒は簡単に神秘の性質から触れています。それは一種の超常体験であり、「惨烈な実存緊張」と捉えられます。しかし、その体験は説明ができないものである、と井筒は言う。



神秘主義とは何ぞやという問いに答えんとして、彼がひとたび此の絶空の境位を立ち出で、思惟・言語の世界に入れば、もはや問うものにとっても答えるものにとっても神秘主義はいずこかへ沓然と消滅し去って踪(あと)もない。



 これに対して哲学は言語によって構成されたものです。「人間的ロゴスが思惟となり言語となって発動するところ、そこに甫(はじ)めて哲学は成立するのであるから」。だから言語化不可能な神秘は、哲学の対象となりえない。しかし、だからこそ、という逆説によって哲学と神秘主義は結びついていく。こうして言語化できないものを言語化しようという試みが、神秘家のなかに生まれると、それはひとつの思想家となって、神秘哲学者となります。これは不可能性にかけるロマンティックな態度、ともいうことができるでしょう。「絶対に思惟すべからずと知りながら而も止むに止まれぬ衝動に駆られて思惟せんと切なくも焦心する」。プラトンに言わせれば、この「狂気」が哲学を駆動する。そして



神秘哲学は神秘主義的実存の自己反省、超越的体験そのもののロゴス化(認識論)であると共に此の絶対的超越的観点よりする全存在界の組織化(形而上学)という形をとって展開するのである。



 ギリシア哲学の根底にも神秘主義が拍動する。本書が取り上げるのは、その「実存的生の基盤」となっています。また、序文では井筒がギリシア哲学に目覚めた体験も語られているのですが、これがとても魅力的な文章となっています。そこでは禅の実践者であった井筒の父との交流について紹介される。井筒の父は、かなり激しい人だったらしく、息子にも無理やりに禅の実践を叩き込んだそうです。親子の共通の話題は、碧巌録、無門関、臨済録……といった禅の公案集だった、とこれは傍からみると「嫌すぎる親子」に思えてならないのですが、禅においては真理に対して「思惟すべからず」という態度で臨まなくてはならないことを彼は教え込まれるのですね。幼少期から井筒にとっての哲学とはそういうものであった、と。しかし、ギリシア哲学との出会いは彼に思惟すること、言語化することを許してくれた。そこに感激があった、と井筒は告白しています。哲学的ユリイカ体験、とでも言いましょうか、こういう話、いいですよね。





 だいぶ長くなってまいりました。本日はここまでにしておきましょう。次回から本文に入ってまいります。次回は第一章「ソクラテス以前の神秘哲学」についてです!





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

土井善晴 『おいしいもののまわり』

おいしいもののまわり posted with amazlet at 16.02.28 土井 善晴 グラフィック社 売り上げランキング: 8,222 Amazon.co.jpで詳細を見る NHKの料理番組でお馴染みの料理研究家、土井善晴による随筆を読む。調理方法や食材だけでなく食器や料理道具など、日本人の食全般について綴ったものなのだが、素晴らしい本だった。食を通じて、生活や社会への反省を促すような内容である。テレビでのあの物腰おだやかで、優しい土井先生の雰囲気とは違った、厳しいことも書かれている。土井先生が料理において感覚や感性を重要視していることが特に印象的だ。 例えば調理法にしても今や様々なレシピがインターネットや本を通じて簡単に手に入り、文字化・情報化・数値化・標準化されている。それらの情報に従えば、そこそこの料理ができあがる。それはとても便利な世の中ではあるけれど、その情報に従うだけでいれば(自分で見たり、聞いたり、感じたりしなくなってしまうから)感覚が鈍ってしまうことに注意しなさい、と土井先生は書いている。これは 尹雄大さんの著作『体の知性を取り戻す』 の内容と重なる部分があると思った。 本書における、日本の伝統が忘れらさられようとしているという危惧と、日本の伝統は素晴らしいという賛辞について、わたしは一概には賛成できない部分があるけれど(ここで取り上げられている「日本人の伝統」は、日本人が単一の民族によって成り立っている、という幻想に寄りかかっている)多くの人に読んでほしい一冊だ。 とにかく至言が満載なのだ。個人的なハイライトは「おひつご飯のおいしさ考」という章。ここでは、なぜ電子ジャーには保温機能がついているのか、を問うなかで日本人が持っている「炊き立て神話」を批判的に捉え 「そろそろご飯が温かければ良いという思い込みは、やめても良いのではないかと思っている」 という提案がされている。これを読んでわたしは電撃に打たれたかのような気分になった。たしかに冷めていても美味しいご飯はある。電子ジャーのなかで保温されているご飯の自明性に疑問を投げかけることは、食をめぐる哲学的な問いのように思える。

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」