慶應義塾大学出版会よりようやく井筒俊彦の『神秘哲学 ギリシアの部』が復刊されました! ホントはたしか今年の7月に刊行される予定だったんですよね。約半年遅れのリリースの裏側には何があったか分かりませんが、年内に手に入って嬉しい。早速読み始めました……が、これはなかなか手ごわい本でして、ちょっと読みにくいところがあります。何しろ、最初に出版されたのは1949年ですから約半世紀前の格調高い日本語となっており、新かな遣いが採用され、漢字も新字体となっていながらも、おそらくフォントが存在する漢字についてはママとなっていて、見たことがない漢字がちょいちょい出てくる。内容はやはり『意識と本質』を書いた大先生の仕事ですから、おそろしくクリアな整理がされているのですが、こうした表現の問題(?)が21世紀を生きる我々にはちょっとした障害として現れてくる。半世紀後ですらすでにこの有様なのですから、あと少ししたらこうした知的な遺産を読める人の数はどんどん減っていくのではないか? と心配になってきますが、それはまた別な話。今後の日本語教育を考えたい人たちにそうした話はお任せして、ここでは井筒俊彦のテキストを丁寧に読んでまいりましょう。これは井筒の格調高い日本語を、私の格調低い日本語へと翻訳する試みでもあるかもしれません。
さて、本書『神秘哲学』はどういった書物であるのか。副題に「ギリシアの部」とありますが、これは当初井筒が西洋の神秘主義の歴史を書こうとしていた証と考えられているようです。その仕事はその後彼の関心が別な領域へと移ったことによって、この「第一部」である「ギリシアの部」のみが残ることになった、というわけですね。目次から見て行きますと、これは4章立てて構成されたもので、各章はそれぞれ「ソクラテス以前の神秘哲学」、「プラトンの神秘哲学」、「アリストテレスの神秘哲学」、「プロティノスの神秘哲学」と題されています。これが300ページぐらい。本書ではこれに附録として「ギリシアの自然神秘主義」という作品もついてくる。これが200ページぐらい。しかし、なぜ神秘主義なのか。井筒は序文において、この神秘主義というものが哲学の発展に必要不可欠なものであったことを説いています。それはなぜか。まず井筒は簡単に神秘の性質から触れています。それは一種の超常体験であり、「惨烈な実存緊張」と捉えられます。しかし、その体験は説明ができないものである、と井筒は言う。
神秘主義とは何ぞやという問いに答えんとして、彼がひとたび此の絶空の境位を立ち出で、思惟・言語の世界に入れば、もはや問うものにとっても答えるものにとっても神秘主義はいずこかへ沓然と消滅し去って踪(あと)もない。
これに対して哲学は言語によって構成されたものです。「人間的ロゴスが思惟となり言語となって発動するところ、そこに甫(はじ)めて哲学は成立するのであるから」。だから言語化不可能な神秘は、哲学の対象となりえない。しかし、だからこそ、という逆説によって哲学と神秘主義は結びついていく。こうして言語化できないものを言語化しようという試みが、神秘家のなかに生まれると、それはひとつの思想家となって、神秘哲学者となります。これは不可能性にかけるロマンティックな態度、ともいうことができるでしょう。「絶対に思惟すべからずと知りながら而も止むに止まれぬ衝動に駆られて思惟せんと切なくも焦心する」。プラトンに言わせれば、この「狂気」が哲学を駆動する。そして
神秘哲学は神秘主義的実存の自己反省、超越的体験そのもののロゴス化(認識論)であると共に此の絶対的超越的観点よりする全存在界の組織化(形而上学)という形をとって展開するのである。
ギリシア哲学の根底にも神秘主義が拍動する。本書が取り上げるのは、その「実存的生の基盤」となっています。また、序文では井筒がギリシア哲学に目覚めた体験も語られているのですが、これがとても魅力的な文章となっています。そこでは禅の実践者であった井筒の父との交流について紹介される。井筒の父は、かなり激しい人だったらしく、息子にも無理やりに禅の実践を叩き込んだそうです。親子の共通の話題は、碧巌録、無門関、臨済録……といった禅の公案集だった、とこれは傍からみると「嫌すぎる親子」に思えてならないのですが、禅においては真理に対して「思惟すべからず」という態度で臨まなくてはならないことを彼は教え込まれるのですね。幼少期から井筒にとっての哲学とはそういうものであった、と。しかし、ギリシア哲学との出会いは彼に思惟すること、言語化することを許してくれた。そこに感激があった、と井筒は告白しています。哲学的ユリイカ体験、とでも言いましょうか、こういう話、いいですよね。
だいぶ長くなってまいりました。本日はここまでにしておきましょう。次回から本文に入ってまいります。次回は第一章「ソクラテス以前の神秘哲学」についてです!
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