スキップしてメイン コンテンツに移動

増田四郎 『都市』

都市 (ちくま学芸文庫)
都市 (ちくま学芸文庫)
posted with amazlet at 14.04.12
増田 四郎
筑摩書房
売り上げランキング: 515,630
都市の建築史の本かと思って手に取ったのだが、全然違っていた。なにかというと都市の形成史であり、西洋でどのように「市民意識」が形成されていったのか(そしていかにして日本では『市民意識』が育たなかったか)を辿る本。結構古い本だし、著者の専門はヨーロッパ経済史だったせいか思想史・文化史的な描写はペラいが(なんというか西洋の思想が一枚岩のキリスト教文化になっている感じがある)、ホモ・エコノミクス的人間観にもとづく歴史描写はなかなか面白い。

著者によれば近代都市の形成と近代の市民意識の形成は、不可分であり、同時平行で進行している。つまりは商業や工業で成功したブルジョワジーによって都市は発展し、また近代市民意識は旧来的な特権階級にアゲインストするブルジョワジーたちの同族意識・共闘意識が基礎となる。ブルジョワジーたちは、やがてプロレタリアートから闘争をふっかけられる立場になり、市民意識にも変化が発生するわけだが、要するに西洋の市民意識とは、そうした階級闘争のなかから生まれてきた仲間意識、と説明される。

これに対して日本だとか東洋だとかは、全然市民意識がないからダメだ、都市も未熟だ、と著者は言う。日本の近代の始まりだって、貧乏していたサムライたちが起こした革命でしょ、農民たちが一念発起して起きたわけじゃないし、要は階級の上のほうが別な人にすげ変わっただけ。日本の市民なんていうものは「はい、あなた方は今日から『市民』なんですよ」と言われて始まっているわけだから、てんで身勝手でどうしようもない、とのことである。「自分たちのコミュニティを良くしよう」という意識も全くないし、一貫した善悪の観念もない。いい加減だ。

読んでいて、あー、昔の人の西洋コンプレックスの発露か……と思わなくもないのだが、まあ、思い当たる節はある。日本で「市民」とか「公共」とかいう概念が持ち出されるときって、人によってすごくいい加減で、結局のところ「自分は正しいんです!」と主張するときに「いや一般的に考えたらさ……」とか「公共の場ではさ……」とか都合良く持ち出されるだけのような気がするんだよな。

個人のあいだでつながりがないわけじゃないけれども、めいめいの快/不快で繋がるだけでしかない。「アレが(アイツが)不愉快だから、不愉快なモノ同士で一緒に叩いてやろう」とか、そんな感じで(そういうつながり方って、インターネット上でも露骨に現れてるときがありますよね)。昔の日本は近所付き合いがあって良かった……とか『三丁目の夕日』のような人々のふれあいが……とか言う「昔は良かった」論っていまだに見ますけど、全然良くなかったじゃん! とも思う。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か