カルロ・ギンズブルグ 『チーズとうじ虫: 16世紀の一粉挽屋の世界像』

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チーズとうじ虫―― 16世紀の一粉挽屋の世界像 (始まりの本)
カルロ・ギンズブルグ
みすず書房
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イタリアの歴史家、カルロ・ギンズブルグの『チーズとうじ虫』を読了。イタリア語の原著が発表されたのが1976年だから、およそ40年前の本。クラシック、とするにはまだ若い本かもしれないけれど、堂々たる大名著。めちゃくちゃ面白かった。

本書でギンズブルグが扱っているのは16世紀のイタリア北部にいたドメニコ・スカンデッラ、通称メノッキオという人物の生涯だ。このメノッキオ、特に歴史的になにか偉業を成し遂げたわけでも、重要な人物であったわけでもない。極貧、とまではいかないがそこそこ経済的に苦労の多い粉挽屋(水車小屋の管理人的な仕事)であり、地方の要職につくことがあったものの、学校の歴史の授業で習うような「歴史」では取り扱われない一般人である。

そういう人物には、普通は記録が残っていない。だから大昔の民衆史というのは、歴史としての扱いにくさがある。本書の冒頭でギンズブルグは、この記録に残っていない歴史の問題についてアレコレ言っている。たとえば、バフチンがラブレーを扱ったときのやり方は批判的に参照される。バフチンはラブレーの作品のなかに当時の民衆文化の反映を見た、が、ラブレーは彼が描くような「民衆」ではなかった。だから、ラブレーの民衆とは、どこまでホンモノなのか? という問題が残る。

で、メノッキオの話なのだが、この人はちゃんとした記録が残っている一般人だった。彼が異端審問にかけられたときの裁判の記録が残されていたのだ。おそらく彼は「あの人、宗教がらみのことを喋らなきゃ、文句なしの良い人なのにねえ」と言われたに違いない人物で、長年にわたってカトリックの教義にあわない宗教的な議論をやたらと人にふっかけるという悪癖の持ち主だった。そこを問題視されて、2度、異端審問にかけられ、最後には彼は処刑されてしまう(2度目の裁判における死刑判決はローマ教皇直々に出された)。

メノッキオの説は、読めばヤバヤバなのがわかるものだ。たとえば「処女懐胎なんかありえねーだろ!」とか普通に言っちゃう。ただ、彼が大変に興味深いのは、そうしたちょっとした聖書の世界観の揚げ足取りに終わらず、いくぶん不明瞭な部分を残しながらも確固たるコスモロジーを形成していることだ。ざっくりと箇条書きでその世界を整理してみると

  • 世界は四元素がまじりあったカオスでできている
  • 神もカオスから生まれた
  • 牛乳からチーズが、チーズが腐ってうじ虫が湧くように、神も天使もカオスから自然発生した
  • 世界 = カオス = 神 だから、あらゆるものが神
  • 生命が死ぬと肉体もカオスに戻る、魂もカオスに戻る、精神だけが残る
……と、まあヤバい汎神論的な世界観を唱えていたわけだ。ここでギンズブルグは「当時としては珍しく読み書きができる人だったにせよ、なんでメノッキオはこんなヤバいことを思いついたんだろう?」という謎解きにかかっていく。メノッキオの裁判記録には、彼が読んだであろう11冊の書物のリストがある。それをつぶさに見て行って、メノッキオの宇宙論への影響を解明しようとする。

しかし、メノッキオの思想のパーツになりそうな断片はいくつか見つかるが、決定的な影響関係は見つからない。彼の思想には、アヴェロエス派との類似が見つかる。しかし、彼が読んだ本のなかにはアヴェロエスに関連するものはない。裁判官たちは、メノッキオの思想とオリゲネスの説の関連をこじつける。しかし、彼はオリゲネスを読んではいない。

そこでギンズブルグは「書かれたもの」以外に視点を広げていく。裁判の記録には、ギンズブルグと交流を持っていた人物の名前が挙がっている。そうした交流から、メノッキオは自らの思想を育てていったにちがいない、とギンズブルグは言う。そこから彼が浮かび上がらせるのは、口頭伝承という知のネットワークだ。

この本の魅力は、この16世紀に生きた奇妙な人物を追いながら、こうして当時あったであろう文化を想像させてくれるところにあると思う。裁判の記録のなかでメノッキオは、ラテン語を使う教会関係者を批判している。民衆はラテン語を理解しない。その時点で、民衆はラテン語という知の権力によって疎外された存在として扱われる。疎外された民衆は、テクストを資料として扱う歴史学によってもアクセスしにくい対象でもある。ギンズブルグの手法は、そのアクセスしにくさの壁を乗り越えるものと捉えられるだろう。

メノッキオが特別な例だっただけではないのか、という疑問も残るだろう。しかし、彼の他にも異端的思想を唱えて裁かれた民衆の存在は記録されている。メノッキオほど詳細な記録が残っているものではないとは言え、それは「メノッキオが特別な例だったとは言えない」という余地を残す材料だ。そうしたはっきりとは言えない余地を想像させてくれるところにも、本書のロマンティックな魅力が含まれていると思う。

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