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男ふたりで京都と滋賀に足を運んで絵や写真をたくさん見たんだ日記(その3)

こちらの記事のつづき。2日目に滋賀から京都に戻り、まずは女房殿へのお土産などを物色する(検討の結果、かづら清の美容つばき油になった)。で、店の周辺を歩いていたら何必館(かしゅうかん)の前を通ったので、ふらりと入ってみた。今は「何必館で観る 現代美術展」(5/31まで)を開催中で、ポスターには白髪一雄の赤い絵の具が荒々しく躍動する絵が印象的だったが、友人が「ここには魯山人の焼き物とか書が常設してあるのだ」というのに惹かれた。ここ最近、食文化に対して興味が高まっているので、魯山人は気になる人物なのだった。

何必館は地下一階から5階までのある小さなビルで、規模は大きくない。観客も全然おらず、この日入ったときも我々ふたり以外は身なりの良い恒例のご婦人(一生懸命作品に関するメモを取っていた)、大学生ぐらいの若い女性しかいなかった。展示作品数も少ないので、静かな空間でじっくり絵を見ることができる。

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最上階のエレベーターの扉が開くとこうした庭が目に飛び込んでくる。これには驚いた。天井がくりぬかれていて自然光が庭の木に光を注いでいる。モダンのなかに大胆に日本の伝統を移植した感じが素晴らしく思った。最上階には茶室もある(一般人は立ち入り禁止だが雰囲気はある)。この最上階で観た香月泰男の絵がとても良かった。常設の魯山人の焼き物も良かった。カゴのように穴を開けた斬新なデザインの織部の花入や、食器はどれも力強さがある。花入には花が生けてあり、その調和も良かった。

ただ、魯山人の書に「下々のものは俺のことをよく批判するが、ものがわかっていない人間は才能ある人間のことを悪く言うものだ」と大変に上から目線のことが書いてあり、なるほど、魯山人が生前いろんな人に嫌われていた、ということに大きな納得感を得もした。

この後、祇園のなかにある伝統的な町家を利用した写真の展示を観に行った(この建物は夏にパスザバトンの店舗になるらしい)。「海女の島:ルガノ文化博物館コレクション」。ここではフィスコ・マライーニというイタリアの学者/写真家が、能登半島近くの島に住んでいた素潜り漁を行う女性たちの姿を撮影したものが並んでいる。手作りの水中カメラで撮影した1954年の水中写真は、この時代にこういうものが撮影できたのか、という驚きがある。

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この人の本には翻訳が多数あり、海女写真もこの本に収録されている。被写体の海女は多くが上半身裸で、肉感的であり、1954年の日本のヴィーナスたち、という言葉がしっくりくる。顔は、ええ、昔の日本人という感じなのですが、すごくスタイルが良い。マライーニは「エロ目線で撮っているんじゃないんだ!」と著作に記しているのだが、エロくはない、けども美しい身体を見ることができた。

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その後、京都駅まで途中でビールを飲んだりしながら、長い距離を歩いて新幹線に乗って帰った。たまたま通りかかった名酒館タキモトで滋賀のガレージ日本酒メイカー的な蔵元「笑四季」の日本酒が手に入ったのが嬉しかった(京都駅の伊勢丹だとか地酒コーナーにもなかったので)。おわり。

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