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個人的な2006年を象徴するアルバムはなんだったか




Killing Time
Killing Time
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Massacre
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 毎年年末になると清水寺で「一年を象徴する漢字」というのがやっております(今年は『命』だったそう)。同じような趣向で、アルバムから今年一年私個人の生活を振り返り、それを象徴するアルバムを一枚選びました。ヘンリー・カウ、アート・ベアーズのギタリスト、フレッド・フリスがNYに渡ってビル・ラズウェルらと結成したバンドMassacreの『Killing Time』です。このアルバムは長らく廃盤になっており、ちょうど去年の年末に再発されたのですが、この一年本当に何度も聴きました。たぶん150回は聴いている。


 「大虐殺」を意味するバンドによる「時間つぶし」という不穏なアルバムですが、内容の方もかなり殺伐としております。ダンサブルなドラムのビートに、うねるような変態ファンク・ベース、そのうえで耳に突き刺さるようなギターが疾走しており、まさに退屈を皆殺しにするような音楽。


 今年は就職活動などをマジで熱心にやるも、あまり芳しい結果が出ず、結局福利厚生の面だけを考えて全然希望していない業界に内定……とまぁ自分にイライラさせられっぱなしの、鬱屈した一年でした。そこから脱却するために、このアルバムを爆音で聴きながら溜まっていく未記入のエントリーシートをマサカーし、「周りにいるやつは全員敵だ!皆殺しだ!!」と試験前に考えたりしました。もう本当にダメだった。良いこともたくさんあったけれど、就職活動をやってる間には一切なかったな……。先日、初めて細木数子のアレをやってみたところ「健弱(小殺界)」という結果が出たので「なるほどなぁ」と思ってしまったぐらい。



Love
Love
posted with amazlet on 06.12.13
The Beatles
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 来年は「達成」の年らしいので、良いことあると良いなぁ、とか思います。占いとか信じないけど、願わくば『LOVE』みたいに幸福が一杯つまった年であって欲しいよ…ほんとに。このアルバム賛否両論あるようだけれど、私的には「全然アリ」。もうビートルズ関係ならどんな風に搾取されたって構わないと思っているので「ジョージ・マーティン大好き!」と叫びたいっす。





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