固有名の解体

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フーコー・コレクション〈3〉言説・表象
ミシェル フーコー 小林 康夫 松浦 寿輝 石田 英敬 Michel Foucault
筑摩書房
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 とっくに全巻刊行されてしまったフーコー・コレクションの第3巻、アマゾンではこの一冊だけ書影がない。『これはパイプではない』を収録した巻である。アドルノの音楽批評を取り扱う論文を書こうとしたときに、最初念頭にあったアイディアのひとつに「アドルノのフーコー的な読み替え(翻訳といっても良い作業である)」というのがあった。なので平行してフーコーを精読していたのだが、結局余裕が無く、この点を忘れたままにしておいてしまった(いつかまた再度チャレンジしたいところ)。第3巻も長い間、読みかけだったのをやっと片付けた。


 この巻に収められた12の短い作品のなかでは「歴史の書き方について」というインタビューと「科学の考古学について」というものが非常に面白かった。ふたつの作品のなかで、フーコーは常に「段階的な認識」について強く批判している。歴史の連続性に対して史学が「時代区分」を設ける虚構っぽさはもちろんのこと、文学を取り扱う際にも「繋がり」の中で文学を語ろうとする態度がとても興味深い。



一冊の本の縁はけっしてはっきりしているわけでも截然と決められているわけでもない。いかなる本もそれ自身では存在できない。一冊の本はつねに他の本と支え合い依存し合う関係にある。



 とこのように述べている。これは、アドルノが「批評家の物神崇拝的な態度」を批判したこととも重なり合って考えられた。フーコーにとっては「固有名」についての問題なのかもしれない。そして、フーコーは「固有性の解体」のようなことを自らに課そうとしているようにも思える。



ブルバギは、まさに手本です。わたしたちすべての夢とは、架空の名前を持つ匿名の下で数学が作り上げられるブルバギのようなことを、それぞれが自分の領域で行うことでしょう。



 とか。このように述べるフーコーを私は純粋に「うわー、カッコ良いなぁ」と思ってしまう。「わたしの本は純粋に単なるフィクションであるのです」と言い切ってしまうところとか。





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