自己言及的絶対者VS他者依存的ペシミスト

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旅路の果て
旅路の果て
posted with amazlet on 06.12.08
ジョン・バース 志村 正雄
白水社
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 「ある意味で、ぼく、ジェイコブ・ホーナーだ」という留保つきの自己紹介から小説ははじまる。そこでジェイコブが「ある意味で」というのは全く正しい。我々はほとんど偶然に生きているのであるし、「主人公がジェイコブ・ホーナーである」ということに関して必然性は存在しない。そのような世界の根源的無規定性が小説全体を覆いつくしており、ストーリーでは哲学的な議論も多く交わされる(実存主義などをかじったことがある方ならば、ふんふんとうなづいてしまう様な問答が多くあるだろう)。


 我々が生を営む上で絶対的にそれを規定する準拠枠が一切存在していない……という明確な事実に触れたとき、取られるような態度は大まかに言って2つある。ひとつは主人公、ジェイコブ・ホーナーのように徹底して自らの意志で動かないこと。はじまりで大学の教師になろうとするのも精神分析医の指導によるもので、行動基準をまったく他者へとゆだねることでだらしなくジェイコブは生きている。もうひとつは取られるべき態度は、ジェイコブの同僚、ジョー・モーガンのように自らを絶対者として規定しまうことだろう。小説の主題とはこの2人が取るまったく正反対の態度の争いとして捉えることができるのではないだろうか。


 最初、ジェイコブはジョーのような人間を徹底して馬鹿にしつくす。自己言及的な「絶対者」はそこで揺さぶりをかけられることになるのだが、実際にジェイコブの挑発的な態度によって自己が揺らいでしまうのはジョーの妻、レニーなのである。というのもレニーにとってジョーが自らを規律するコードになっているのだから当たり前。このあたりからジェイコブをめぐる状況がどんどん込み入ったものになっていき、ものすごく救いようがない感じで終わってしまう(ラスト・シーンは映画『ゴースト・ワールド』にも通ずる)。ジェイコブが自らの意志で動き始めたとたんに、思いがけない偶然(というか他者の意志)で全てがめちゃくちゃになってしまう感じが結構泣ける。


 アメリカのポストモダン小説ってキチガイばかりかと思ったら、こういうマジメな人もいるのだなぁ、と思ってしまった。





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