来るべき、音楽唯物論

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Plays Standards
Plays Standards
posted with amazlet on 06.12.15
Ground Zero
Rer (2002/04/08)
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 最近、歩きながらよく聴いているのがGROUND ZEROの『Play Standards』。これは大友良英が選んだ彼にとっての「スタンダード曲集」。どの曲もアレンジがとても大友良英らしく編まれていて素晴らしい内容。とても9年も前の音源とは思えないほど研ぎ澄まされている。過去の距離を掘り起こすこと。そこには過ぎ去ってしまった過去へのまなざしが存在し、憧憬が付きまとうものだけれど、逆に既に「過去である」ということがこのカヴァー集の「色褪せなさ」の要因なのかもしれない。っていうかその既に過去であるが故の「色褪せなさ」が、大友良英の持ち味なのかなぁ、と思ったりする。この人の音楽にはいつも「歌謡曲とフリージャズが同時に存在する1970年代の風景」みたいなものを感じる(もちろん、それは私個人のイメージでしかないわけだが)。それとこのアルバムを聴いていてますます「菊地成孔ってソフィスティケイトされたガトー・バルビエリみたいだよなぁ……」と思ってしまった(悪い意味ではなく)。


 ところで「大友良英の音楽」にはそのような抽象的なイメージのほかに、「ああ、この人の録音作品だなぁ」っていう独特のテクスチュアがあると思う。1950年代から1960年代のジャズとは明らかに異質なそのサウンド――とくにドラムがシャリシャリと鳴る感じ――は、どちらかと言えばニューウェーヴ/ポスト・パンクのものに近い気がする。最近のONJQではややマイルドになっている印象があるけれど、どんな機材を使ってるんだろうか……というのが気になる(エンジニアの問題も大きく絡んでくると思うのだけれど)。


 そんなことを考えてたら、ふと映画キチガイの友人から聞いた「映画唯物史」の話を思い出した。これ映画美学校あたりで開講している講座らしいのだが、映画のマテリアル、つまりフィルムの材質や技術革新などの歴史から映画史を俯瞰するという新しい試みだそうな。なんともマニアックすぎる話だがこういう「新しい歴史構築の作業」は、話を聞くだけで面白い。「ユニカラーっていうのはね……」とか教えられても私の場合「へぇぇー」で終わってしまいそうだが。


 なんでそんなことを思い出したかというと、私が気になっていた「大友良英の録音作品で使われていた機材」とかの話というのは、もしかしたら「音楽唯物論」として扱われるべき内容なのではなかろーか、なんて思ったからだ。「機材の変遷」などとしたらそれは立派な「音楽唯物史」だろう。誰か講座を開いたりしませんかね。印象批評、楽理分析……そして「音楽唯物論」という「第三の音楽批評的視座」みたいな。





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