『限界の思考』を、もう一度(1)

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
宮台真司 北田暁大
双風舎 (2005/10/22)
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 宮台真司と北田暁大という世代の違う社会学界のスター的存在による対談集『限界の思考』を再読している。これは最近、再び「社会学になにができるか(というよりも、私が社会学というツールを使って何を語ることができるのか)」という問いを考えているので。賛否両論あろうとも、私は宮台真司という人を尊敬しているので(著作は全然読んでないけど)大変勉強になる本。ヒールレスラーのように偽悪的に振る舞い、理論家としても強力なものを持っていて、かつシカゴ学派のように行動する、というところに惹かれる。


 第一章では、主知主義の<依存>と主意主義の<自立>というトピックを読み直して、驚くところがあった。「<世界>は合理的に記述可能」とする主知主義は、世界の根源的未規定性を前にして、存在論的な不安へと陥り、そして超越的な対象(例えば、神)へと依存していく。こういったスタンスに対して、「<世界>は合理的に記述不可能」とする主意主義は主知主義を「ヘタレだ!」と批判する。「根源的未規定性」――例えば「私が私であって、他の誰かではないこと」――を前にしたとき、主意主義は単純な「驚き」へと開かれていく。この驚きが「私が私であること」への肯定へと繋がっていくところがとても面白かった。もっともこれは開き直りのようにも聞こえるのだが、宮台はこういった主意主義の態度を「合理的」と評価している。こういう合理性を、以前の私ならちょっと上手く飲み込めなかったんじゃなかろうか、などと思う(だから、こうして主意主義の合理性に納得してしまう自分に驚いている)。宗教や神に<依存>せずすむような、<世界>の根源的未規定性に開かれた<自立>的あり方を、宮台は「第三の宗教性」と呼んでいるそうな(このあたりをちゃんと読まなくては、などと思った)。



広場の真ん中でひとり叫ぶ行為は、表現ではなく、表出です。でも、そうやってひとり叫び、気がつくと周囲に叫び声が澎湃として満ち満ちるような「表出の連鎖」――ミメーシス――があり得る。



 また、このミメーシスの可能性というところに強く心を打たれた。対談の冒頭で、宮台はコミュニケーションの共通前提が崩壊していることを指摘しているのだけれども、それとも深く関わっている事柄だ。ケータイ小説を批判してても仕方がない(その批判に共感する人はそもそもケータイ小説を読んでいない)というように、何らかを批判することの無意味さや、声の届かなさを前にして、少なくとも私はミメーシスの可能性にかけるしかないのだな、と漠然と思う。真魚八重子さんの「墓標」エントリや中原昌也の「いらだち」に私が感動してしまう理由は、そのような可能性にかけた切実な<表出>に思えるからなのかもしれない。





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