『限界の思考』を、もう一度(2)

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
宮台 真司 北田 暁大
双風舎 (2005/10/22)
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 第2章は「文化を記述する方法」。ここではどのように社会学が文化を読むべきか/記述すべきかについての議論が重ねられている。冒頭は北田暁大が上野千鶴子/廣松渉から学んだ態度――弁証法的な止揚を拒絶しつつ、安易な多元主義におちいらないという立場どりの理論的・倫理的重要性について語っている。このあたりは個人的にアドルノとも共鳴して読め、面白かった。「『……が欠けている』という批判はまったくごもっともで、そう指摘さるあなたご自身が、そういう観点から分析をなさればいい。私は、フェミニズムが見出してきたこのふたつの変数を設定することによって問題に取り組んでいく」という上野千鶴子のような決然とした自らの態度表明(あるいは態度設定)は「何かについて語るとき」に重要なものと思われる。「あれも、これも」と取ることが可能な視座を可能な限り取るのではなく、自らが選択した視座に踏みとどまりながら“突き抜けること”が必要なのではなかろうか、などと思った。当たり前の話かもしれないが。

 この章も語られているトピックが盛りだくさんで、カルスタの問題点やルーマンのゼマンティーク(意味)論など大変勉強になるのだが(『やっぱり、ルーマンなのかなー……』と懐疑的に思う。『社会構造と意味論』は邦訳の予定があるなら待ちたいが)、前章でも触れられていた「コミュニケーションの共通前提の崩壊」についてさらに詳細な説明が入る箇所で一つ考えることがあった(しかし、それはとても個人的なことである)。


社会の過剰流動化によって生活世界が空洞化し、知識人も大衆も「同じ生活世界を生きている」という共通了解が崩壊すると「知識人/大衆」図式は機能しなくなります。大衆が各島宇宙ごとの知識を持つのと同じく、知識人は各島宇宙ごとの知識を持つだけ。社会学者が社会学を知っているのは、豆腐屋が豆腐を知っているのと同じになります。


 以上が「共通前提の崩壊」に関する宮台の説明だが、これは分業による高度な専門化システムの形成・分化という現象に言い換えられると思う。例えば、システムA(社会学)とシステムB(豆腐屋)があるとして、Aにおいて重要とされる「知識」はBにおいては何の意味を持たない、という風にして。

 これに続いて、70年代から80年代にかけてのモードの変遷を北田が応答している。そこで触れられているのが「ネタからベタ」へという事象である。事例としてあげられるものはYMO。(クラフトワークを知っていれば)YMOは「ネタ」なのだが、(クラフトワークを知らなければ)「ベタ」に読み込まれてしまう(そして80年代はそのように『ネタからベタ』に読み込まれていった)、ということが語られている。このような「読み手」の性質によって、読み込まれる意味が異なってしまうこともコミュニケーションの共通了解の崩壊の一つとして挙げることができるだろう。

 そこで私が思い出したのは、大学のゼミでのことである。ゼミ生の一人に日本の「アングラ文化」についての研究を行っている人がいて、同じような事態が起こっていたのである。彼が発表をおこなうとき、まさにYMOが「非常に先駆的なもの」として読まれ、「アヴァンギャルド(?)」だった、というベタな読み方をしていた。そこで、私は延々と「いや、YMOはネタなんじゃないの?」という質問(というか、批判)を繰り返していたんだけれども、今となって考えるとそういう「君の読み方はちょっと違うんじゃないの」と一言言うことに何も意味が無かったんじゃないか、とか思う。宮台的に言うならば、私の一言は「豆腐屋にとっての社会学の知識」がごときものになっていて全くの無意味だったんじゃなかろうか。

 社会学者は社会学者にだけ、豆腐屋は豆腐屋にだけ話しかければ良い、という話ではない(それは他者とのコミュニケーションとは言えない)。おそらく社会学者にとっては豆腐屋こそが他者なのだろう。漠然と、その他者へとどのように語りかければ良いのか、ということを考えている。




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