『限界の思考』を、もう一度(3)

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限界の思考 空虚な時代を生き抜くための社会学
宮台真司 北田暁大
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 第3章は「社会学はどこへ向かっていくのか」。過剰流動化がすすむ社会の中で、乖離的な人格を持った人々が増えている、と宮台は指摘する。人格的な統合が行われないそのような人々は精神医学的な視点からすれば「病理性を持った人」(壊れた人)と診断されてしまうが、宮台は逆に「乖離こそが過剰流動化への適応なのではないか」という評価を下している。統一された人格を持った理性的な姿を一つの「人間の条件」とするならば、乖離という適応の仕方を取る人間はもはや人間ではない。しかし、これは社会システムそのものが「人間」を必要としなくなってきている、ということなのではないか、と宮台は言う(それに対して北田も東浩紀の「動物化」を持ち出して共鳴している)。


 この章は、そのような社会の中で「僕たちが人間であり続けることは、必要なことか」、「人間であり続けるとは、どうあり続けることか」、「僕たちが人間であり続けるには、何が必要か」という問いを巡るものすごく熱い章となっている。そこで行われる議論は「社会学は、そのような社会を生きる人々にどのような<答え>(選択肢?)を提示できるのか(すべきか)」というものであるが、「(社会学が提出する選択肢を前にして)我々はどのように生きるべきか(行動するべきか)」という風にも読める。宮台と北田はここで「人間の終焉」(フーコー)を語っている。第2章では「終焉を語る言説が、その対象物を延命させる」という議論も出ているが、その議論を鵜呑みにして「《人間の終焉》を語り継ぐ限りは、本当の終焉はやってこない(第3章ではその本当の終焉を、『終焉の忘却』というような言い方をしている)」と楽観的に構えることはできない。


 危機感を抱きながら、宮台は「社会においてまだ完全には人間が不必要化されているわけではない」と言う。「動物化された人間」(乖離した)を管理するためアーキテクチャを作る「人間」が必要なのだ。現実的な社会は「壊れていない人間が設計したアーキテクチャを、壊れた人間が生きる」ようなドゥルーズ的な権力が横行する社会にシフトしている、という指摘も宮台は行っている。


 「壊れていない人間が、壊れた人間を管理している」姿を想像すると、それは「SF的なもの」や「一種の陰謀論」として感じられてしまう。が、それは「現実のもの」として社会のなかで存在することを示す事例を思い出した。



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 中原昌也その他によって書かれた『嫌オタク流』には「オタクが喜ぶ要素を盛り込まないと商品は面白いように“全然売れない”/逆に要素(猫ミミ、ツンデレ、制服、近親相姦……)を盛り込めば、確実にある程度の売り上げが見込める」という証言がある。これは壊れていない人間が、壊れた人間を管理する事例として読むことができる(オタクの『要素萌え』に関しては、『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』でも触れられている)。この事例を思い出しながら、「壊れた人間が設計する恣意的なアーキテクチャのなかを、壊れた人間が生きる」と社会を宮台は「現実的に無理」と棄却しているが、果たして本当だろうか、と思う。壊れていない人間が、壊れた人間を「動物的に」管理しはじめたとき、それは「壊れた人間が壊れた人間を管理する社会」が実現したことになるのではないか。


 「動物化という現実に人間主義的な観点から反発したり、否定的な意味しか与えないのは、一面的すぎるのではないか」という意見から「動物化が<適応>なんだったら、それで良いじゃん!オタク万歳!!」と居直ることも可能だ。が、個人的にはやはりそこに反発したいな、と思う。かと言って「壊れていない人間が、壊れた人間を管理する」という図式も嫌だ。理由は、人間がぶつかり合って創発的に何かが生まれていく、という姿が「面白い」と感じるからなのだが。





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