Walton: Symphonies & Concertos [Australia]posted with amazlet at 08.12.02
Decca (2008-09-02)
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ウィリアム・ウォルトンが書いた2曲の交響曲と、3曲の協奏曲を収録した2枚組の廉価盤を購入したので聴いている*1。約1600円と手ごろな価格も魅力的だが、これはなかなか中身の方も素晴らしい。何度も繰返して聴いているのだが、聴くたびにちょっとずつ20世紀を生きたこのイギリス人作曲家のことが好きになっていくようである。
イギリスの作曲家について特別詳しいわけではないが、この国の作曲家の作風はものすごく大雑把に言って2つのタイプに分けることができると思う。1つは「荘厳派」とでも名づけられるだろうか。ドイツ風の交響音楽に多大な影響を受けながら構築美を目指すような作品を書き続けたタイプで、これにはエドワード・エルガーが該当する。そして、もう1つは大変田園的な美しいメロディが魅力的な「牧歌派」。こちらにはレイフ・ヴォーン・ウィリアムズが該当すると考えている。
ウォルトンについて言えば、断然前者の方に分類されるだろうが、この人の場合、曲の構築密度がかなり過剰である。作品を聴いていると「あまり天才肌のタイプではないなぁ」と漠然と感じるところがあるのだが(光るものがない、というか……)、そこで足りていない部分を密度によって補っているのでは、と思うほどだ。持っている絵の具を全部使ってキャンバスを塗つぶしたような印象を受ける。協奏曲の独奏パートなどについても「出せる音域はすべて使っておこう!」というような書き方をしている。しかし、そこで限界を飛び出して、独奏楽器の機能拡張に向かったりはしないのが良識派風である。お顔もそんなに特色がある感じじゃない(スパイ組織のボス風)。
対位法を駆使した分厚いオーケストレーション(繰返すけれどもヒンデミットやレーガーのように華麗な感じは乏しい。あと、交響曲第1番の第4楽章はヒンデミット《画家マチス》のパクりなんじゃないか……?)のほかには、展開のしつこさも特徴的である。どこまでも過剰な人だ。どこまでも行ってもドラマティックな展開が用意されており、大変しつこい。まるで「ロマン主義は絶対終わらせない……!」みたいなドズル中将ばりの執念で、勝手な使命感を抱きながら書いていたのでは、などと想像してしまう。
また、交響曲第2番の異色さも少し気になる。この曲には、CDに収録された他の作品にはない凶暴さがあるのだ。特に第3楽章の狂った《フーガの技法》風の主題でゴリゴリ進める部分はすごい。しかも、最後はとってつけたように長調の和音を連打させて終わる。なんだこれは……!と驚くほかない。新古典主義時代のストラヴィンスキーと三大バレエを書いた頃のストラヴンスキーのドッペルゲンガーが対話しているようだ、とか言っておくと良いのかもしれないが、ストラヴィンスキーほどふざけた雰囲気が感じられないので扱いに困ってしまう。
最後にこのCDに収録の演奏について。演奏者はそれぞれ、交響曲第1番と第2番は、ウラディミール・アシュケナージ/ロイヤル・フィル、ヴァイオリン協奏曲は、チョン・キョンファ/アンドレ・プレヴィン/ロンドン響、チェロ協奏曲はロバート・コーエン/アンドリュー・リットン/ボーンマス響、ヴィオラ協奏曲がパウル・ノイバウアー/リットン/ボーンマス響という組み合わせになっている。
交響曲ではアシュケナージが唸りまくりで結構ウザかったりするのだが、いつもながらの卒のない解釈という感じで好感が持てる。曲が異様に濃いので丁度良いのだろうか。この人は、ショスタコーヴィチなど振らずに(どうせだれも期待していないのだし……)、こういう珍曲ばかり取り上げればもう少し評価されるだろうに、と思わなくもない。ただし、たまにものすごく演奏するので侮れないのだが。
特筆すべきなのは、ヴァイオリン協奏曲のチョン・キョンファだ。これはものすごい名演。なぜかこの曲だけ、委嘱者であるヤッシャ・ハイフェッツの録音と、(ハイフェッツのストラディヴァリを弾きはじめた直後の)諏訪内晶子の録音を持っていたのだが、これまでの印象が一気にアップデートされてしまった。録音時、23歳。最近まったく音沙汰がないが、改めて彼女がとんでもない演奏家だと感じてしまう。体の芯から火をつけてくれるような唯一無二の演奏家で、この人の実演に接するまでは死ねない……!とも思う。
冒頭で「ウォルトンが好きになっていく」とか書きつつ、褒めているのだか、貶しているのだか分からない文章になってしまった。
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