真木悠介『自我の起源――愛とエゴイズムの動物社会学』

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自我の起原―愛とエゴイズムの動物社会学 (岩波現代文庫)
真木 悠介
岩波書店
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 真木悠介(aka見田宗介)の著作を読むのは大学2年の時『時間の比較社会学 』を読んで以来。当時の私は今のようにアドルノではなくて「自我」とか「私」とかいう事柄に問題関心があったから、『時間の……』はかなり衝撃的で頭がクラクラするような著作だった。で、最近、岩波現代文庫に入った『自我の起源』を読んでまたクラクラと来てしまった。これはすごい論文である。私は初めこのタイトルから「近代以降の自我を巡る論文なのかな」と想像していたのだが、時代はもっと遡る。


 どこまで遡るかというと、原始生命の誕生まで。この原始生命から現代までの進化を辿りながら、自我(私である意識)とは何なのか、どのように発生したのだろうか、を整理・分析するというものすごい仕事なのである。社会学の著作でここまで巨大なスケールで描かれたものに出会ったのはこれが初めてだ。そこでは人類学、生物学、脳神経学、遺伝子学……といった様々な諸学問から出た説に言及されるのだが、その膨大な文献を整理し「錬金術か!」というほどの分析を生み出す著者の能力には感嘆してしまう(このすごさについては、真木に教えを受けた大澤真幸も解説で述べている)。この仕事は「日本社会学界のゴッド・ファーザー」の名に相応しい……。



カルロス・サンタナのアルバム『キャラバンサライ』の第1曲は「転生の永遠のキャラバン」Eternal Caravan of Reincarnationと題されている。インドでの修行時代にサンタナに霊感を与えたグルの教えは……(P.1)



 書き出しからしてこのカッコ良さ。この冒頭の一説だけでも「Love Munesuke!」と叫びたくなる。しかし、さらに恐ろしいのはこの優れた論文が全5部に渡る「自我の比較社会学」という仕事の、最初1部の“骨組み”に過ぎないということである(これは『補論1』で明らかにされる)。読みながら「ものすごく大事なことをたくさん言っている割にはどうしてこう不親切なほど早足に進んでしまうのか」という印象はあったのだが、骨組みだというならばこれは納得がいく。全5部が完成したらどれだけのヴォリュームになるか想像もつかないが、絶対に完成させて欲しいと思った。


 ……と、興奮が止まらない本であったのだが、やはり骨組みのせいか初学者向けの本ではないかもしれない。気をつけていないと面白い部分をスーッと通り過ぎてしまうような文章で全編が綴られているし、説明は結構端折られている感じがする(良く言えばまったく無駄のない文章なのかもしれないが)。ただし、著者が整理する諸学問分野の話がイチイチ興味深い。だから、科学の本としても読めてしまうと思う。


 個人的に最も心に残ったのは『利己的な遺伝子』で有名なドーキンスの『延長された表現型』という著作を紹介する部分だった。ドーキンスはさまざまな生命体の活動を「生成子(≒遺伝子)が繁栄するための表現」としている前提をまず押さえつつ、次にこの部分を少し引用してみる。



生成子の<表現型>は、個体「それ自体」には止まらない。たとえばより安全な巣をつくる個体はより安全に生存し生殖し、したがって生成子をより確実に再生産する。動物の巣の性能の差異もまた、生成子の増殖率の差異を帰結する。この場合動物の「巣」もまた生成子の、延長された<表現型>と見ることが出来る。ビーバーのダムは何千平方メートルの規模で一体を氾濫させる。この巨大な貯水湖もまた、ビーバーの体内にある生成子の<延長された表現型>である。(P.131)



 ここであげられるビーバーの<延長された表現型>は、同種に対して働きかける表現である。しかし、自然界にはもうひとつ異種に対して働きかける<延長された表現型>がある、とドーキンスは言う。



ハリガネムシの幼虫はミツバチなどに寄生するが、成虫は水中で生活するからどうにかして水へと回帰しなければならない。感染したミツバチが水たまりの方へ飛んでゆき、まっすぐ水中にダイヴィングして死んでしまったことが観察されている。もちろんふつうのミツバチにはそのような水への憧憬はない。ハリガネムシがミツバチの何かの系統に作用して、ミツバチを運転している。このミツバチの行動は、ハリガネムシの体内の生成子の表現型である。(P.132)



 この同種へ働きかけるもの、異種へ働きかけるもの、これら2つの<延長された表現型>の例から真木は、ごくシンプルに2つの問いを提示しているように思う。ひとつめは「生成子の乗り物」である生命体の「個-性」はどこまでで区切れば良いのか、ということ。ビーバーの「個-性」は一見、その毛に覆われた皮膚と空気との境目によって区切られる、かのように見える。が、それを「生成子の乗り物」とすることによって、自明のように見える区切りは崩れてしまう。ビーバーが作るダムはビーバーを構成する生成子によってプログラミングされたものであり、実のところ生成子の表現である、と言える。だとするならば、「乗り物」も生成子の表現なのだから、「個-性」の区切りを「乗り物の皮膚と空気の境目」に置くことはできないであろう……云々。


 もうひとつの問いはもう少し実存的な意味合いを持つ。それは個の主体性の問題である。真木はハリガネムシの例のほかにもう少し分かりやすいものあげているのでこれも引用しておく。



風邪をひくとくしゃみをするのはただの偶然か、それともウィルスが他の宿主へ植民する機会を増すために人間の身体を操作する結果であるのか。(P.133)



 これは少しSF染みた話に感じられるかもしれない。が、私としては結構グラッと来る表現だった。「くしゃみをする」という能動的な表現が、「(ウィルスによって)くしゃみをするように作用されている」という受動態へと転化する。自明であるようなものがここでまた揺らぐ。<私>が行う活動は、私の生成子の表現ばかりではなく、私ではない他者(他ウィルス?)の表現でもあり得る。しかし、実際にはそこでは「操作されている」という意識は生まれない。<私>はあくまで<私が行う行動>として、くしゃみをする。この不思議さ。そして<私>と<ウィルス>の関係性は、そのまま対人的な(一般的な)社会のアナロジーにもなっている。





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