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矢作俊彦『悲劇週間』




悲劇週間―SEMANA TRAGICA (文春文庫)
矢作 俊彦
文藝春秋
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 2005年に発表された矢作俊彦の『悲劇週間』という大長編が文庫になっていたので読む。これは素晴らしかった。「矢作俊彦という人はホンモノだ」という思いを読みながら幾度となく反芻する。翻訳家であり詩人だった堀口大學のメキシコ時代を綴った青春小説、それもオーセンティックで、ウェルメイドな恋愛青春小説のような形式をとりながら、そのなかでは20世紀文学のさまざまなモチーフが引用・変奏されている、というまるで新古典主義時代のストラヴィンスキーのごとき作品である。



明治45年、ぼくは20歳だった。それがいったいどのような年であったか誰にも語らせまい。



 冒頭の一節からポール・ニザンの『アデン・アラビア』を髣髴とさせるが、矢作俊彦が堀口大學へと与える性格付けは、プルーストが描いた「わたし」とそのまま重ねられるように思われる。それから圧巻だったのは、堀口が、そのロマンスの相手であるフエセラという美少女とともに闘牛を観に行く、というシーン。ヘミングウェイばりの筆致でもって描かれるその熱狂に興奮を抑えられなくなってしまう――このように細かい引用・変奏の指摘はいくらでも可能だろう。なかには『百年の孤独』を思い起こさずにはいられない点もある。


 堀口がメキシコの地に降り立ったとき、そこはフランシスコ・マデロが革命によって大統領に就任して間もない頃で、堀口の恋愛と、マデロが反マデロ派によるクーデターで失脚し殺害されるまでの経緯は平行して描かれる。タイトルの『悲劇週間』とは、この反マデロ派によるクーデターが終始の日々を示したものだろう。ここから文章は日記のように綴られる。


 戦下のなかで堀口は自らの死の危険を感じながら、過去の戦争の話を聞く。語り手はさまざまで、元幕臣の庭師や、幕府にフランス近代法術を教えた経験を持つフランス語教師が、戊辰戦争やパリ・コミューンと第3共和制政府の戦いを語る。メキシコで起こっている戦争のなかに、日本やフランスにおける血と暴力と死の記憶が混入する。このアマルガム的状況は、そのままメキシコの「人種の坩堝」と化した状況と類比することもできよう。


 このような点は、ほとんど現代の、日本人の作家が書いた作品というのが疑わしくなるようなところだ(カルロス・フエンテスの作品といっても信じてしまいそうになる)。また、現代の、日本人の作家がこのように20世紀初頭に生きた人間の感覚をここまで瑞々しく、まるで本当にその時代に生きた人のように描けるのか、という点も不思議でならない。想像力と文章の上手さがすごすぎる。


 作品は全編堀口大學の文体を模して書かれたものだそうだ(私は読んだことがないのでよくわからなかったけれど)。借り物の文体、それは「独自の文体」ではない。でも、これは作家に特徴的な文体が誉めそやされるという現象が馬鹿馬鹿しくなってくるような素晴らしい「ホンモノの小説」だ、と思う(前からずっと「文体」というものが過大評価されてる気がしてならなったこともあるのだが)。こういう真っ当な内容を持つ作品を書く小説家が同時代にまだ残っている、というのも幸福に感じた。





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