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ガブリエル・ガルシア=マルケス 『百年の孤独』:4年ぶり、2度目の通読。でも最高。




百年の孤独 (Obra de Garc〓a M〓rquez (1967))
ガブリエル ガルシア=マルケス
新潮社
売り上げランキング: 5489



季節はすっかり冬に入りかかった感があるけれど、遡ること一ヶ月ほど前、秋の乾いた風が駅のホームを待つ人の風を撫で始めた頃「あ、今猛烈に『百年の孤独』が読みなおしたい! そう今すぐに!!」という啓示を受けて書店にダッシュ(持っていた旧版は人に貸したままになっていた)そうしてこの世紀の名作を再読することになったわけだが、再読でもいきなり面白すぎて涙が出てしまうほどの傑作である、と確認してしまう私なのだった。自分語りになってしまうが、たぶんこの本を読んでいなかったら随分と世界が変わってしまっていたのではないか、この本に出会わなかったら集英社のラテンアメリカ文学シリーズを揃えたりしなかっただろうし、小説を書いたり、小説を集めた本を製作したりもしなかっただろう。そうした意味でさまざまな《はじまり》を生んだ本なのである。今『百年の孤独』を読んでしまった世界にいる私は、並行世界の『百年の孤独』を読んでいなかった私に対して「ハロー! そっちの世界の想像力はどうだい? 寂しくはないかい?」と声をかけたくなるけれど、今この瞬間もあらゆる選択肢によって無限に枝分かれする量子論的宇宙の次元を超えて届く声の大きさを持たない私は、幾分寂しいものとなったであろう想像世界にいきる並行世界の私(存在しない)を憐れむことしかできない。





登場人物が覚えられない(だからこそ、良い)だとか、無数の逸話がフラクタルのような構造を描く、だとか、またローカルに閉じた村が外部との接触によって栄えるのだが、その外部によって搾取され、また衰えていく様子、だとか、愛だとか、孤独だとか、様々な意味付けや読み方が可能な小説なのだろう。それだけ深みがある、というか語りがいがある本であるのは確かだし、実際、今回の再読で「え、これはヒッチコックをパクッてるのか?」だとか「え……これってUFOが登場するってこと?」だとか新たな発見があった。でも、そんな風に分析的に読んでしまうよりも前に、まずはこの圧倒的な想像力に驚嘆すべきなんだと思う。発見は、驚きの後にちょっと遅れてやってくるのがちょうど良い。500ページ弱の長編は、体感ページ数で言えば100ページほどにさえ感じられ、本当にあっという間の時間に、無限大のイメージがパワフルに押し寄せ、後半は「えええ、もうすぐ終わってしまう……あ、あ、あ、終わった……」と愕然とするしかない。超楽しいのに、読み終わるのが悲しい。





あらすじを語ろうとすれば、すべてが嘘になってしまう。物語の本当に骨子を抜き出せば、いつまでもガキンチョのままである男と、それを見守る母の話とも言えるし、その母はいつも幸福を手に入れられずに耐え続けるお話でもあり、もっと単純化すると夢想家と母性の連鎖、とも言える。人間の想像力はこんな風にも使える、ということは想像力の誤った使い方、あるいは結果として誤った使い方になってしまった歴史が目についてしまう日常において、希望とそっくりに見えてしまう。また、4年ぐらいしたら読もう、いつか原著で読めたら良いな。





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