間違いなく知らなかった(しかし自分の世界と地続きであるはずの)世界を本書で垣間見ることができるだろう。荒廃が静かにはじまっていることに、改めて気づかされるような気がする。もはや、みんな『北斗の拳』みたいな世紀末を心の底から望んでしまっているのではないか。最貧困の世界に落ちていった彼女たちが「自己責任論」で追い討ちをかける人がいるならば、特に。とはいえ、たとえそんな気づきがあったからといって、自分になにができるのかはわからないし、そういう意味でも苦しくなる。
淡々と状況をレポートする文章ではない。著者は絶望や失意、怒りの声を織り交ぜながら語る。そういうウェットさは個人的には苦手な部類にはいるのだけれども、著者がそのように語りたくなるのも理解できる。そうしなければ、たぶん、そういう状況に触れ、そして状況を変えられない自分に対する責任感・プレッシャーで心を病んでしまうのではないか。取材によって確実に著者は業(カルマ)を背負ってしまっている。
そうした怒りの声のなかには、最貧困女子に対して援助をおこなうはずの行政・制度に対する批判がある。これまでの支援制度は、援助される者にとって「居心地が悪い」。だから、違法デリヘル業者のほうが少なくとも一時は「居心地が良い」環境が与えられるのであれば、当然そちらに流れてしまうだろう。現行の支援制度は四角四面の対応で良くない……など、真っ当なことが言われているようにも思う。もちろん「居心地が良い環境を作れ! ってどんだけ甘やかすのか!!」みたいな反批判も予想されるのだが。
行政や制度が良くない。これは生活保護制度が問題視されたときも活発に言われてきたことだ。ただ、本書でそういう批判を改めて読んでみると、その種の批判から「どうしてそういうシステムが正しく運用されなくなってしまったのか」という視点が欠けているようにも思われた。
地方自治体の「水際作戦」にしても「自治体の予算が……」、「財政が……」とか、事情はわかる。でも、水際作戦で困窮する人を追い出している生身の人間の声はそこからは聞こえてこない。困窮する人の声は生々しく捕らえられているけれど、システムはシステムとして描かれるばかりな気がする。あるいは、自治体の職員が非情なシステムの一部として語られたり、とか。
でも、職員だって人間だし、家に帰ったらお父さんだったり、お母さんだったりするわけでしょう。そう、血も涙もある人間なハズなのに困っている人を追い返したりする。そこには、なにかがある気がするんだよ(『イェルサレムのアイヒマン』的な感じになっちゃうけども)。そこがわからないと、制度を良くしても、なんか上手くいかないんじゃないか、と思うのだった。
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