スキップしてメイン コンテンツに移動

辻調理専門学校(編) 『辻調が教えるおいしさの公式 日本料理』

辻調が教えるおいしさの公式 日本料理 (ちくま文庫)

筑摩書房
売り上げランキング: 304,976
ここ数年めっきり自分で料理をする機会は減ってしまったが、料理本を読むことはむしろ増えているんじゃないか、というわたしである。まるで通信カラテで黒帯をとった気分というか、アダルトビデオを見て経験値を得た気分になっているというか、実践がまったくともなっていなくて大変カッコ悪いのだが、料理をしなくても料理本は面白い。『辻調が教えるおいしさの公式』もなかなか良い本で「料理の東大」と呼ばれる調理専門学校が編集している(この学校の創始者である辻静雄の伝記小説はめちゃくちゃ面白かった!)。写真はあまり使われておらず、文章とイラストを中心として説明がなされているのだが「日本料理」の巻では、道具の選び方・使い方からはじまって、無駄のない簡潔な料理本と言えよう。

華やかな写真を使用した料理本は盛り付け例などで参考になるし、なにより食欲の想像力を刺激する。本書にはそういうのがない。そのかわり、ヴィジュアルで攻めてくる料理本とは違う「通読できる料理本」としての魅力がある。「日本料理」というと料亭料理・上品な割烹料理を想像してしまうが、収録されているレシピは、出汁の引き方からはじまって和食の基本的な料理ばかり。材料リストや調理方法の記述は、ぶっちゃけ読み飛ばしてしまって良いのだが、各料理に食材の選び方や、食材の活かし方のポイントが記載されている。これがとても面白い。なにしろ「おいしさの公式」であるから、読んでいて「なるほど、プロの料理人はこういうところに気を使って料理しているのね〜」と感心させられる部分がある。

わたしが一番感心したのは「蛸ときゅうりの酢のもの」で「きゅうりを輪切りにせず、一度縦に切って、なかの種をとって使う(種の部分は一番青臭くて、水分も多く含んでいる)と、より蛸の食感とのコントラストが際立つぞ」と書いてあったこと。料理人ではないから、ふむーん……と思うほかないが、こういうのを知っているか知らないかで料理の食べ方も変わってくるようにも思う。作り手からすると、うっとおしい食べ手であろうけれども(しかし、こういう本を読んだからといって蘊蓄をひけらかすわけではない)自然と料理を美味しくする方法だけじゃなく、料理の美味しさとはなにか、我々はなにを美味しいとおもっているのか、というところも考えさせられるのだった。

コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」