ブラジルのMPB歌手、マリア・ガドゥの新譜を聴いた。彼女の作品に触れたのは2011年のカエターノ・ヴェローゾとのライヴ競演盤、そして2012年のセカンド・アルバム、そしてサード・アルバムとなる本作である。ブラジル音楽界において「女カエターノ」と呼ばれるのは、鬼才アドリアーノ・カルカニョットであるけれど、マリア・ガドゥは本作で晴れて「2代目女カエターノ」を襲名したと言えるかもしれない。アドリアーノ・カルカニョットが、アート・リンゼイやカエターノ本人周辺のミュージシャンとのつながりから、女カエターノ化するのは当然だとしても、マリア・ガドゥは人脈的にそこまで濃くカエターノとつながっているわけではない(過去に一緒にツアーしてライヴ盤まで作っているけれど)。にも関わらず、ここ5年ほどのカエターノ・ヴェローゾのオルタナティヴ・ロック化したMPBの音に本作は限りなく肉薄していると思った。なんといっても、ディレイを多用したギターによる空間作りが。それどころか、フェルナンド・カブサッキのようなアルゼンチン音響派的な感じもあって、あんまりブラジル、ブラジルしていないのが新鮮だった。サンバとか全然入ってないしね。しかしながら、それがマリア・ガドゥの世代にとってのリアルなブラジル音楽なのかも。正直ちょっと地味すぎる感じがあるが、悪くないアルバム。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...
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