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私は何故「前衛していて良い」に苦笑するか



 先日、紹介した宮下誠*1の『「クラシック」の終焉?――未完の20世紀音楽ガイドブック』を読んでいる。今のところ、前作に相当する『20世紀音楽』よりも「簡潔な辞書」的性格が強く、また、いたるところに転載不可だったネット上の文章への言及が見られる奇書、という印象を受けている(『続きはWEBで!』戦略を取るCMのごとし、である)。


 書店に並ぶのは7月10日らしいので「現代音楽に興味がある」という奇特な方々はチェックすれば良いと思う。


 ただ、私の文章とそれに対する宮下のコメントを読み、「私が言いたいことが上手く伝わっていないのではないか」という風に思ってしまった。「上手く伝わらない」のは伝える側の問題だと考えるので、ここで補足させていただく。以下は、まだこの本を手に入れられていない方、あるいは今後もこの本を手に取ることのない方にとってはどうでも良い文章。けれども、もし本を読んで当ブログへ「批判」を言いに飛んできた方には読んで欲しい(かな)。






  • 「前衛している」は「良い」のか?



語彙の貧困さ、「前衛している」の多出についてはmk氏の指摘どおりだろう。より言葉を磨かなければならない。そのように思う。



 本のなかで、宮下はこのように反省と今後の努力の意思を示している。まず、この点に関し、私が問題としているところと宮下が問題とするところがズレているように感じている(私の書き方が悪かったのだと思う)。宮下は「語彙の貧困さ」を反省する。しかし、私が大きな問題だと感じていたのは、むしろそっちではなく「前衛していてよい」という言葉から受け取られる価値観についてだったのだ。

 もう少し、噛み砕いて説明すると、「前衛していてよい」という言葉を用いるとき、言葉の使用者は価値判断をおこなっている、しかし、その価値判断はどうよ?――と私は問いかけたいのである。だから「前衛している」という幾分奇妙な日本語についてはどうでも良い。現代的な日本語でそのように言葉を用いることは一般的になっている、と考えているから。「ロックしている」、「ジャズしている」とかそういう「名詞*2+する」言葉にはもう慣れてしまっている。


 前衛的な手法(例えば、12音技法、微分音、電子楽器)によって前衛的な響きが音楽のなかに生まれる。「前衛していてよい」という言葉は、私には「そのような手法を用いている“から”良い」という風に聞こえる。しかし、果たしてその言葉は「音楽の本質」を捉えているのだろうか。私としては、ある手法を用いることが即ち「良い」に接続されてしまうことぐらい、無味乾燥な評価はない、と思う。



わたしの作品は、12音の楽曲であって、12音の楽曲ではない。



 このブログで繰り返し引用してきたシェーンベルクの言葉を再びとりあげてみる(というか、私の問題意識もここから初まってるんだけど)。シェーンベルクもまた同じく「手法」と「評価」が単純に接続されているのを問題視している。


 喩えるならそれは、建物の外観だけを観て「これは良い建物ですねぇ~。わかりました~」と次の建物へと向かってしまう『渡辺篤史の建もの探訪』のようなものだろう。作曲家を建築家に置き換えるなら、「おいおい、それで終わり?家のなかもちゃんと見てくれよ」と思ってしまうのは当然のことと思われる。このとき「家のなかみ」は「音楽の本質」と置き換えられる。シェーンベルクも、「手法(外観)」ではなく、「楽曲の本質(なかみ)」を聴いて欲しかったのではないのか――アドルノ的に言い換えるなら、私が問題とする評価の方法は「物神崇拝的な態度」ということになる。


 以上のような理由で私は「前衛している」(宮下は概ねこれを良い意味で用いているように思われる)という言葉は適切ではない、と思うのだ。




  • 音楽はスポーツではない


 もっとも「手法」を評価することも別な文脈で用いるなら適切なのだろう。例えば「厳格な書法」や「複雑なフーガ」を評価するときなのがそれにあたる。個人的な最近の例で恐縮だが、ヒンデミットの《画家マチス》に度々現れるフーガ部分を聴いていて「これはすごい(どうやったら、こんなに複雑な声部の書き分けが秩序立てられるのだろう!?)」と感動してしまった。

 しかし、これはすごくスポーティな評価なのだと思う。短距離走の選手を「どうしたらあんなに速く走れるのか」とかと同じレベルの価値判断であって、それは作品の本質に触れていない。ヒンデミットの《画家マチス》が素晴らしいのも、もっと別なところにあるのだ、と私は考えている*3


 同じ音楽でもメタルやハードロックにおいてはこの判断はすごく生き生きとしている。「○○はイングヴェイより速く弾ける」とか「○○のドラムはテリー・ボジオぐらい上手い」などと、それらの音楽は評価される。こういう体育会気質は嫌いではない。性犯罪者ばりに強面のオッサンがネックが折れるんじゃないかというぐらいにギターをバカ弾いている姿を見ているとそれだけで楽しい(こんなに怖い顔の人が一生懸命練習したんだろうな……というのを想像するだけで面白い)。けれど、音楽はそれだけではない。例えば、そのようなスポーティな判断を敢行したとき、ジョージ・ハリスンやリンゴ・スターといった存在はどのように評価されるのだろうか。




  • 付記


 以上が私と宮下の間にあるズレを修正しようとした文章である(『音楽の本質』とは何か、ということには全く触れていないが)。が、心配になるのは、ここで書いたことの大半はもっと詳しく宮下に送ったはずの論文に書いたはずなのにズレちゃっている……ということである。私の文章が分かりにくかったのか、それとも単純に読んでもらっていないのか。



うまくすればこの本を読んでくださったmk氏が本書についてブログで答えてくださるかもしれない



 と宮下は『クラシックの終焉?』のなかで書いている。これに対して、私は「(時間がある限り)よし、やろう」というつもりでいるのだが、もしも宮下が「ちゃんと読んでいない」で「興味深い論考」などと書いていたなら、果たして「私が答えたところでそれを受けてもらえるのかよくわからないな」と感じるところである。単純に「わからない」、「面白くない」、「低レベル」と一蹴してもらった方が良い。読まないで「興味深い」はちょっとな……(傷つきます)。




*1:敬称の使い方がよくわかんないので、敬称略とさせていただきます


*2:でもロックは元々動詞か


*3:この作品についてはまた別なところで語りたい





コメント

  1. ブログの書き込みありがとうございました。mkさんのご論考もちゃんと読みましたしご論考の趣旨(とても難しかったけど)もわかったつもりでいます。是非今後もブログにお考えを書き込んでいただければと思います。おっしゃる「ずれ」は書き手の立ち位置というか、音楽に対する「真摯さ」の違いだと思います。ぼくいささか逆説的にひねくれているのです。

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  2. 毎度失礼な感じのエントリですみません。お忙しいなかで、エントリと論文を読んでくださったことに感謝したいと思います。
    書きながら、立ち位置の違いについて、私も考えていました(ひねくれ方で言ったら私も相当にひねくれているのです)。もしかしたら、宮下さんが(とても素朴に)「音楽の《紹介者》」であろうとするのに対して、私は一貫して「音楽の《批評者》であれ」と押し付けている、そのようなズレなのかもしれません。

    返信削除
  3. お返事ありがとうございました。「素朴」を偽装しながら結構戦略的に聴き方や考え方を揺さぶっているつもりなのですがどうでしょうか?そこらへんのところが共通理解として共有できればもしかすると私たちはさほど遠くには立っていないようにも、ご論稿の内容も含め、思えるのですがいかがでしょうか?『20世紀音楽』、『クラシックの終焉』両冊を間に創造的な対話がこれからも続けられることを期待しています。宮下拝

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