上野修『スピノザの世界――神あるいは自然』

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スピノザの世界―神あるいは自然
上野 修
講談社
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 このスピノザ入門本。思想系の本を読んでいるとまれにスピノザの名前が出てくることがあり、いつか読もうと思っていたのだが、これはかなり面白かった。「スピノザは、ほとんど困惑させるほどまでにミニマリストなのである。(中略)ごちゃごちゃ言わず、ただ、できるだけ速やかに事物自身の語りに到達する(P.10)」だとか「いま・ここにある世界は必然的であって、現にいま・ここにそうなっているのだから、それ以外にはありえなかった」だとか、まるでアドルノと正反対だなぁ……と思う。


 アドルノほど「ごちゃごちゃ言って、事物自身の語りに到達しない(そして事物自身は語らない)」スタイルの思想家はいなかったろうし、アドルノほど「いま・ここでそうならなかった可能性」に過敏だった者もいなかった。アドルノは『否定弁証法講義』において<偽ナルモノハソレ自身ト真ナルモノノ指標デアル>と述べる。これはスピノザの出した命題を逆にしたものだ。だが、アドルノとスピノザの思考がまったく相容れないものか、というとそうでもない――というかスピノザの用語を用いて、アドルノの音楽論を説明すると個人的には結構しっくり来てしまうところがある。同じように、デリダの用語を用いて、アドルノの音楽論を説明することもできるのだが、こちらよりも上手く馴染む気がする。


 スピノザの言う実体(無限の存在)と様態(実体を限定したもの)の関係性と、アドルノの楽譜(書かれたもの)と演奏(書かれたものを限定したもの)の関係性は上手い具合にマッピングできる気がする。楽譜はいかようにも読むことが可能である。そこには無限の可能性が存在する。演奏とはその無限の可能性の一部を切り取って、現実に鳴る音にする行為に過ぎない。このとき、切取られなかった部分については捨て置かれることとなる。楽譜=演奏という結合は、不可能である。楽譜はすべての属性を持つが、演奏は楽譜が持つ属性の一部しかもたない。楽譜という全体があり、演奏という部分がある(演奏のなかに楽譜があるのではない)。以上の図式は、そのまま音楽と批評の関係性にも当てはめることが可能である。音楽のなかから、意味を探ろうとする批評は、音楽のなかから一部の属性を切取る行為に過ぎず、音楽と批評は一致しない。アドルノにはつねにこの同一となることへの断念がある。なので、偽りの同一性を厳しく批判していた。


 かなりとっちらかったメモ書きみたいになってしまったが、会社に行く時間なので、ここでおしまい。最近はまたアドルノについて少し考えています。全然、本の内容に触れられなかったので最後に、スピノザはどんなことを言っているか紹介しておくと……。



己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来ならば相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えておけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。



 以上は立川談志が弟子の立川談春に語った言葉だが、大体スピノザも同じことを言ってる、と思う。つまり談志はスピノザなのだ。たぶん。





5 件のコメント :

  1. はじめまして。アドルノを調べていたところたどり着いたのですが、もともと音楽畑の人間なので反応してしまいました。で、ちょっと気になったのですが、

    「いま・ここにある世界は必然的であって、現にいま・ここにそうなっているのだから、それ以外にはありえなかった」

    というのは「世界(あるいは事象、もっと狭義なら存在)は神からの賜りものである」というところから出発している哲学ですよね(違ったかな?)。世界そのものが神であり、ゆえに定義できる個としての神は存在しない、という汎神論。彼はその哲学に着地するため、そこへの道筋を言語で書き示そうとしたのではないでしょうか。

    思うに、ここにある「楽譜」と「演奏」の出発点というものは、本来「意図された音楽(思想)」があり、その「演奏(表出)」のための指示としての「楽譜(言葉)」というのを飛び越してしまっているのではないでしょうか。こう考えると「楽譜」こそ本来そこにある「音楽」の一側面にすぎない、ということになると思うのですが…(「演奏」すら作曲家の幻視している「音楽」とは一致しない、という詭弁にもつながりそうですが、これはこれで正しいとも思えます)。

    とはいえ、哲学に関して自分は門外漢ですし、どれもかじった知識なので見当はずれなことを言っていたらすみません。最近アドルノに傾倒しはじめたばかりなのですが、プロフィールにあった座右の引用に共感してしまい、何かしら足跡残そうと思って仕事の合間に書き込んでみました。それにしても

    ――「彼の文章が難解なのは彼が芸術家であったからであり……」なんていうのは「ドヴォルザークのメロディがドロ臭いのは彼の実家が肉屋だったからだ」と同じくらい意味がない。

    というのは痛快ですね。いや、これは時として意味を持ちうる要素かもしれませんが、こういうスタンスで物を言える人はすごく好きなので(談志の引用もナイス)、またちょくちょく覗きに来ようと思います。

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  2. コメントありがとうございます。少し文意が読み取れない部分があり、返信がしにくいのですが(申し訳ありません……)、お答えできそうなところだけ限定的に返信させていただきますね。

    >こう考えると「楽譜」こそ本来そこにある「音楽」の一側面にすぎない、ということになると思うのですが…

    想像されうる文意を私の言葉で翻訳しますと、これは「楽譜が作曲家のインスピレーションと一致しない」ということになるでしょうか。これは見方によって、2つの考え方が出来るように思います。

    作曲家の頭のなかで鳴っている音が「ホンモノだ」というならば、当然、楽譜はその「頭のなかで鳴っている音楽」を限定したものになるため、一致しません。

    しかし、「頭のなかで鳴っている音もあるのだが、楽譜上で設計/整理をする」という場合、今度は「楽譜がホンモノだ」ということになります。

    >「彼の文章が難解なのは彼が芸術家であったからであり……」なんていうのは「ドヴォルザークのメロディがドロ臭いのは彼の実家が肉屋だったからだ」と同じくらい意味がない。

    これは実はいくつかあるアドルノ論への批判なのです。現在アドルノについて書かれた本の多くが、アドルノをセンチに、ロマンティックに捉えすぎている、というのをずっと考えていまして(しかし、アドルノはセンチで、ロマンティックな人です)、そうではない読み方をした論文を書くつもりでいるのですが、まだ「序文」しか書けていません。

    アドルノについての文章でリアクションをいただけるのは、あまりないので大変嬉しく思っています。これからもよろしくお願いいたします。

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  3. 哲学(特にヘーゲルやマルクス・エンゲルスの弁証法)、複雑系などに興味があり、スピノザも知ろうとこの「スピノザの世界」を手に取りました。
    そこからこのコラムに辿り着き、読ませていただいているうちにアドルノについて興味が湧いて来ました。
    ついてはお手数ですが、アドルノの入門書があれば教えていただけると幸いです。

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  4. こんにちは。入門書的なものならば以下のエントリで紹介していました。
    http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20070930/p1
    このとき読んでいなかったマーティン・ジェイの『アドルノ』については以下です。
    http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20071010/p1

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  5. 早速のご紹介どうもありがとうございます。
    読んでみます!

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