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古川日出男『聖家族』




聖家族
聖家族
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古川 日出男
集英社
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 古川日出男の最新作。舞台は東北、奇しくも実家(福島県)から帰ってくる新幹線のなかで読み終える。800ページ弱、2段組の超ボリューム。これを読んでいた姿を見た私の母が「あんた、国語辞書なんか読んで、なにしてんだい?」と問いかけたほどの圧倒的な分量で綴られた、汎東北的な神話。『ベルカ、吠えないのか?』でも見られた血縁関係の系譜学的ストーリーは「すわ、中上健次か!すわ、ガルシア=マルケスか!」と思わずにはいられない……のだが、これはちょっと収まりが悪い感じの読後感でものすごく残念な気になってしまった。


 前半は青森県の「狗塚家」の血筋について語られ、後半では福島県の「冠木家」の血筋について語られる。東北の北端と南端にある一族の物語が、交流し、循環するようにして物語は閉じる(あるいは閉じない。循環なので)。けれども、後半の「冠木家」の方のエピソードが不足しているようで、かなりバランスが悪い。単純に量の問題なのか、原因は微妙だけれど(なんか魅力的な登場人物が出てこないし……)、バランスを取るためにあと400ページぐらい必要な気がした。


 しかし、前半のロードノベルの形式を取った部分は本当に面白い。読んでいて震えが止まらなかったぐらい。狗塚家に生まれた兄弟が東北を巡り、そのほかにも東北各地の観光地を舞台にしたショートストーリーが挿入されるこの部分は、ほとんど「観光小説」と言っても良いぐらいである。「この小説を読むとダブリンの街が歩ける」と評されたのは、ジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』だったろうか。小説のなかでは「地図」が重要なモチーフになっているのだが、この小説自体が地図として読むことが可能であると思う。


 また前半部分では「父と息子」という神話的なモチーフも前面に押し出されている。互いに無視しあう父と子(しかし子の方では、父を意識せざるを得ない)との関係性は『海辺のカフカ』も髣髴とさせるのだが、古川日出男の場合、父殺しを描かずに、息子が父を完全に忘却する(交流を断念する)ということによって息子が父を乗り越えることを描いていた、と思う。必然的にそれはカタストロフを回避する。結局のところ、この回避が後半のグダグダ感にも繋がっているような気もするのだが……。


 「妄想の東北」、これもまた作中に何度も登場するフレーズである。これは東北人として思うところがある言葉だった。東北ってソフィスティケートされた観光地と田園風景ぐらいしかない、何もないところだと個人的には思っている。だから、妄想を抱かなければ神話は描けないのだ、とこの作品を読みながら考えてしまった。熊野や南米のように自然と神話が立ち上っていかない、東北とはそういった土地であると思う。





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