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ピエール=ロラン・エマール ピアノ・リサイタル@東京オペラシティ コンサートホール




プログラム


ドビュッシー:≪ベルガマスク組曲≫


ベンジャミン:≪ピアノ・フィギュアズ≫


シュトックハウゼン:ピアノ曲IX


ベートーヴェン:「エロイカ」の主題による15の変奏曲とフーガ op.35





アンコール


リゲティ:≪ムジカリチェルカータ≫第1番


クルターク:≪子供の戯れ≫より 第2番


シューベルト:3つのレントラ


シェーンベルク:6つの小品 op.19


ブーレーズ:≪ノタシオン≫より 4曲


ショパン:≪子守歌≫


 現代最高峰のピアニストのひとり、ピエール=ロラン・エマールの来日リサイタルを聴きに行きました。前回の来日時も彼の演奏を聴いたのですが*1、今回も最高でした。特にメインのベートーヴェンから、出し惜しみが全くない充実したアンコールまでが素晴らしく、本当に満足いくまでひたすらに良い音楽を聴かせ続けてくれます。





 前回の来日時同様に、今回のプログラムでも古典と現代曲が交互に演奏されたのですが、この試みはやはり楽しい。併置される作品たちは構造的に繋がりあい、どこかではっきりと「あ!」と思う瞬間がある。それは意外なマリアージュと呼ぶべきものではなく、批評的な意味の発掘に近いように思われます。こういった意味で、エマールの演奏会に足を運ぶと言う行為は「彼が演奏する作品」を聴きにいくと言うよりも、「彼自身」を聴きにいく行為により近くなる。エマール自身もそれに自覚的なのかもしれません。あのアンコールのサービス精神は彼自身を聴き来てくれる聴衆への真摯な応答だと感じます。





 それにしても、アンコールでブーレーズの《ノタシオン》を演奏するなんで、キチガイ沙汰にもほどがあります! 一体一日何時間練習すればあんな風になれるのでしょうか? 最高ですが! 気が早いですが、次回の来日時も絶対に聴きに行こうと思いました。あとサイン会に出て来たときの格好がダンディで惚れた。






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