Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)posted with amazlet at 11.08.12Frances Yates
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今回は第10章「16世紀における宗教的ヘルメス主義(Religious Hermetism in the Sixteenth Century)」を見ていきましょう。ここでイェイツが宗教的ヘルメス主義という言葉で指し示しているのは、魔術なし、純粋に宗教的で、哲学的なものとしてヘルメス文書の内容を取り扱う潮流のことです。これは主に16世紀のフランスで盛り上がっていたそうです。彼らはヘルメス・トリスメギストスを偉大な宗教的書物を書いた人物とする一方で、魔術的な部分については批判的で、また、そのなかでも『アスクレピウス』などのマジカルな内容は後に別な人によって挿入されてしまったもの、として捉えたんだとか。ヘルメスの教えが聖書に描かれた創造物語とあまりに類似していたことは、やはり重要に取り扱われていたようです。ヘルメス文書が古代のエジプトで書かれたものではなく、キリスト教が始まってから書かれたものである、ということが指摘され始めるのは17世紀に入ってから。16世紀の人々はまだ、ヘルメスの偉大さにハマっていた、といったところでしょうか。
このムーヴメントはルフェーヴル・デタープル(1455-1536)によって始まった、とイェイツは言います。彼はイタリアから新プラトン主義を輸入した人物でもあり、フィチーノやピコに批判的でありながら、1505年に注釈付きの、フィチーノ編『ポイマンドレース』と『アスクレピウス』を出版します。これにはルドヴィコ・ラッザレッリという人が1494年に書いた『ヘルメスの創造について(Crater Hermetis)』も含まれていました。その内容とはヘルメス文書の4巻を再構成したもので、彼の精神とともにある使徒についてのキリストの霊感をヘルメスの経験によって蘇らせる、という風に解釈したものだったそうです。ルフェーヴルは魔術については批判的でしたが、『ヘルメスの創造について』という本は1549年にフランス語版も出版され、フランスの聖職者たちのサークルで宗教的ヘルメス主義を盛り上げる結果となりました。
またフィンフォリアン・シャンピエールというフランスの新プラトン主義者は、フィチーノの信奉者でもありました。彼は1507年に『四原質の生命について(De Quadruplici Vita)』という本を出版しています。これはフィチーノの『生命についての書』を模倣したものだったそうですが、シャンピエールの本からは護符についての内容がすっかり削除されているのだとか。またこのなかでシャンピエールは『アスクレピウス』の魔術についての記述はヘルメスによるものではなく、邪悪な魔術師であるマダウロスのアプレイウスによってラテン語訳された際に挿入された、という主張をしています。これもまた宗教的ヘルメス主義を後押しする言説として、フランスで広く支持されたものだったようです。この本で重要なのは、ラッザレッリによるヘルメス文書の最終巻と目される文書のラテン語訳を収録していることにもありました。これはフィチーノが手に入れられず、訳せなかったものでした。
1554になるとトゥルネブスという人がヘルメス文書のギリシャ語版にフィチーノ&ラッザレッリによるラテン語版を合わせてパリで出版します。この序文ではヘルメス主義のキリスト教への類似に関する指摘は控えめですが、ヘルメスはファラオよりもモーセよりも前に生きた人物とされています。イェイツはここにヘルメスをより聖なるものとして、よりキリスト教的なものとして捉える傾向を認めています。この傾向は1574年にスカリゲルらによる訂正が加えられたヘルメス文書ギリシャ語新版(ベースはトゥルネブス版)を出版したフランソワ・ド・フォワ(François de Foix)によってより濃いものになりました。彼はヘルメスをヘブライの預言者を超え、使徒や福音の伝道者たちと同格の神の知識を持つ人物とみなします。モーゼ以前に生き、神の啓示を受けた人物であるヘルメスはノー魔術で、クリーン。悪い魔術はアプレイウスによって挿入されたものだ、という説はここでも繰り返されます。
ただし、こうした宗教的ヘルメス主義の盛り上がりによって、フランスにおける魔術的なものがすべて排斥されたわけではありませんでした。また、ここで批判されているアプレイウスの小説『黄金のロバ』に描かれた神秘的なモチーフは、近代の魔術師のモデルにもなっていて、それはジョルダーノ・ブルーノも同様であった、とイェイツは付け加えています。さて、宗教的ヘルメス主義の話に戻りましょう。そもそもフィチーノもピコもキリスト教神学に援用するために古代神学や新プラトン主義を用いていたことは先に見たとおりです。言わば、16世紀フランスの神学者たちの統合的・折衷主義的な古代神学への取り組みは、元々のフィチーノやピコとそう違うわけではない。しかし、魔術から古代神学は独立し、独自の発展を見せます。
イェイツはここで自身の『16世紀のフランス・アカデミー(The French Academies of the Sixteenth Century)』を紹介しています。ここが特に面白い。当時のフランスには、ノー魔術な古代神学の流れを組む神学者たちによって《詩と音楽のアカデミー》が設立されていたそうです。この学校は、古代の形式と考えられていたものよりも後の詩と音楽を評価することに注力していたんだとか。その目的はその詩と音楽を聴いた人にある種の《効果》を与えるためだったと言います。それは《呪文》とどう違うのか、という問題が浮かび上がりますが、イェイツはこの当時の魔術と芸術との境目を完璧にわけるのは不可能だ、としています。イタリアのメディチ家から嫁いできたカトリーヌ・ド・メディシスはメディチ家の伝統を守り(?)、護符や魔術に興味を持っていたことで悪名高かったそうですが、彼女の1581年に開催した「王妃のバレエ・コミック」は、木星や金星の力を歌や音楽の呼びかけによって、天から召還しようという意図があったぐらいですから魔術と芸術は渾然としていたわけです。
さて、ここまでで言及されてきた人たちはみんなカトリックの人たちでした。しかし、プロテスタントの側にもヘルメス主義を使っていた人物も存在しています。そのひとり、フィリップ・ドゥ・モーネイ(Philippe Du Mornay)は1581年に『キリスト教の真性について(De la vérité de la religion chrétienne )』という本をアントワープで出版します。当時ヨーロッパは宗教改革とカトリックの対抗改革によって荒廃しきっており、モーネイはこの本のなかでヘルメス教に立ち返ることによって、これらの対立を何とかしようじゃないか、両サイドの狂信的な力の行使から抜け出そうじゃないか、というようなことを言ってるんだとか。やはりこれもノー魔術系のヘルメス主義であり、ここには当時のオランダにおける宗教的寛容主義への取り組みが反映されている、とイェイツは言います。宗教的寛容主義は、エラスムス主義が用いたところでもありますが、ヘルメス主義というまったく違ったところから、寛容主義が生まれているのが興味深いところです。
モーネイの『キリスト教の真性について』は、オランダにおける動きに共感していたというフィリップ・シドニー卿(Sir Philip Sidney)によって翻訳され、イングランドでも出版されます(途中でシドニー卿が死ぬので完訳はされず)。モーネイの本の引用はフランス語なのでまるで読めないのですが、イェイツは同じ部分をシドニー爵訳でも引用してくれています(ただし、中英語なので綴りが現代英語と違ってちょっと読みにくい)。そこではヘルメスが神について語ったこととして、否定神学的な神についての説明がなされています。また、シドニー卿はイングランドに赴いたジョルダーノ・ブルーノを歓待した人物でもあります。ここでさらに色んなことがつながってきて、ドーパミンがでてしまいますね。
この章でようやくジョルダーノ・ブルーノについて見ていくための下準備が整いました。どんだけ長い前置きなんだ、という感じですが……とりあえず今回はここまで。次からはもう少しペースをあげ、密度を広めにとってまとめていこうかと思います。おつかれさまでした。
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