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山善(YAMAZEN) 鼻毛カッター YNC-10:え、鼻毛カッターってこんなに安かったんだ?




山善(YAMAZEN) 鼻毛カッター YNC-10
山善
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男の子は母親に似る、というのは遺伝子的な定説であって、私もその例に洩れず、ほぼ母親と同じ顔、しかもホルモン分泌までもが女性的であるらしく、つい最近まで毎日髭を剃るなどという習慣さえ身に付いていなかったわけですが、気がつけばアラサーにならんという年頃になっており、髭は毎日剃ってるし、鼻毛のケアなんかもしなくちゃいけない時期にさしかかっているわけであります。困りますよね、鼻毛。自分は九州男児であるがゆえ、外見などは気にせんとですよ! 男は黙ってソウルで女の股を濡れさせるとですよ! などとガイに振る舞える方はまだしも、困るのは一般的なT字剃刀ではそれない、鼻の穴と、鼻の下のマージナルな部分に毛が生えちゃったりした場合。抜くのは痛いですし、バイキンが入っちゃう、とか言うじゃないですか。そして奥のほうからはひじきみたいに長いヤツが成長してきてさ……。切るのも面倒だし、でも、処理しなければ奥さんに鼻毛がでていることでプププッと笑われる、あるいは、そっと黙殺されるわけで。いったいどうすれば良いんですか! と天を仰ぎたくなったりもするのですが、Amazonで鼻毛カッターを調べたら800円もしないで買えちゃうじゃないですか! そりゃ買うしかないだろ~、と買って使ってみて、良いね! と思った次第。





単三電池駆動のマイメンにエネループを入れてスイッチオン、ノーズのホールにイン! するとジョリジョリ、という音を立てて、ジョブがゴー・オンされ、一通りナニが終わって、ホールの内部を見てみるとそこには10代の頃のような、フェアウェイな状態が保たれている!! エネループの状態のせいか、電圧のせいか、トルクは弱めな感じでしたが、ちゃんと剃れる!! しかも、うまいことガードが働いてるせいで結構鼻の内面の部分を攻めにいっても傷はつかないし痛くない!!! ワンダフル!!!! というわけで、800円以下でこの快適さを手に入れられるなら、これで処理したほうが良いですよね、というお話でした。





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テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

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