スキップしてメイン コンテンツに移動

首都を歩こう《Tokyo Walkers》第1回(表参道-六本木-新橋-東京)







首都を歩こう《Tokyo Walkers》は、先日運動不足に悩む友人とひっそり結成したウォーキング集団。からりとした秋晴れに恵まれた本日その第1回イベントが開催されました。今日は表参道-六本木-新橋-東京の名所を華麗にスルーしまくるコースを設定(地図)。スタート地点はふだんほとんどいかない表参道の高級ブティック通りです。同じ日本人なのにきっと食べているものや見ているものや、吸っている空気さえ違うラグジュアリーで穏やかな雰囲気の街を歩きます。











根津美術館。歩くのが目的のイベントですのでこうしたスポットもどんどんスルーしていきます。













しばらく歩くと青山墓地に入りました。遠くには六本木のバビロンが見えてくる。









さらに歩くと新国立美術館の搬入口にでました。何度か行っている美術館だけれど、この角度から見ると「え、なにこの建物、なんかすごい建物だね」と改めて思ってしまう。ウネウネした曲面が特徴的な建物だけれど、乃木坂から美術館に直結の出口から入ると結構そのあたりを意識せずに入ってしまうんですよね。









バビロンも近づいてきます。









六本木ヒルズの前をスルーして、テレビ朝日の横あたり。このあたり、ガラス張りのピカピカした建物が並んでいますが、太陽の位置によって日光が乱反射してまぶしくてやってられないよ、という時間はないのでしょうか。









その近くにはこうして古めかしい壁が残っていたりするので、ちょっと面白い。いま調べてみたら、国際文化会館という施設の裏側みたい。









東京タワーも近づいてきました。これもスルーします。





ものすごい勢いで蒸気を吹き上げる謎の装置





東京タワーのふもとにあった、ものすごい勢いで蒸気を吹き上げる謎の装置(動画にとれば良かった……)。地下からの排気をなにかしているのか、地下1500メートルの旧日本陸軍の秘密研究所で改造人間が製造されていてもおかしくない薄暗い雰囲気があってほんのりホラー。













すっかり秋の空、という感じです。









史跡を発見。御成門。徳川家の菩提寺の門だったそうです。死人の髪の毛を盗んで生計を立てている妖怪じみた鬼婆がでてきそう。













見事に調和感のないビル、ホテル、マンション。JRAの前には今日も今日とて予想に勤しむ市民の姿があり、このあたりだけものすごくタバコ臭い。低所得者層の所得がここに吸い上げられ、富の再分配がおこなわれているのか……。ニセ神殿じみたファサードは、市民を救わない神の見えざる手を象徴している……!













浜離宮のほうまで出てくると、少し陽が傾いてきました。とはいえ、このときまだ15時ぐらい(スタートは13時)。少し疲れてきたので予定を変更して、新橋で一杯飲むことになりました。






中銀カプセルタワービル









その途中には本日2軒目の黒川紀章物件、中銀カプセルタワービルが。メタボリズム建築の代表作、といわれる建物ですが、もはやそうしたコンセプトの斬新さなどがまったく心に響かないほど汚れきっていた……。カフセルタワーヒル……。













濃ゆいビル





銀座・新橋周辺。さすがにサラリーマンの聖地、歩いているだけで夜のワイドショーのインタビューなどを受けてしまいそうな空気感が街を覆っているだけあって、濃ゆいビルがあります。









西暦2048年、東京都を襲った死の灰によって都民は死滅し、街だけが残った……という設定が似合う美容室。果たして営業しているのだろうか、ポンペイなどにいかなくても東京では時が止まった街を見ることができるのです。





結局入ったのは「えのき亭」というお店。なんでもテレビ番組で認められた「新橋で一番古い焼き鳥屋」だそうです。注文を取り違えてもにこやかにサービスとして間違え注文を出すおじさんや、いろいろ零しても堂々としているおばさんで切り盛りされている味わい深いお店でした。焼き鳥の肉が大きく、そこにあんまりこだわりがない感じの、秘伝でもなんでもない風のタレが塗り付けられている。これが新橋クオリティなのか……!













2時間ほど飲んだらすっかり日が暮れていました。日比谷公園の前をスルーして、東京駅に向かいます。

















三菱一号館美術館付近のイルミネーション。あの~、節電とかそういうのは関係ないんでしょうか……。









そんなわけで東京駅に到着。おつかれさまでした。《Tokyo Walkers》は観光名所はひたすらスルーするストイックなウォーキング集団ですが、歩いているあいだは和やかな会話を楽しむ非常に社交的なグループです。職業・経歴・年齢などを問いません、興味がある方はFacebookにてメンバーを募集しておりますのでご連絡くださいませ。イベント開催は不定期ですが、次回は歩いたら温泉か銭湯に入ってビールを飲む催しになりそうな予感!!





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...