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イョラン・セルシェル《時は止まって 限りない静けさと沈黙へ》 @フィリアホール




ダウランド:時は止まって/ストラング卿のマーチ/題名のない小品/ダービー伯のガイヤルド/涙のパヴァーヌ


ビートルズ:ジャンク(マッカートニー)、エリナー・リグビー/ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア(レノン/マッカートニー)


J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調BWV1008


ペルト:アリーナのために


S.L.ヴァイス:ロジー伯の死を悼むトンボー


J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第4番変ホ長調BWV1010



イョラン・セルシェルはスウェーデン出身の世界的に活躍するギタリスト。現在彼はスウェーデンの田舎のほうにある自宅にて旧オリーヴ少女が夢見るようなスロー・ライフを送りながら音楽活動をおこなっているそうですが、大変人気のある奏者であって、私もクラシック・ギターの世界はほとんど門外漢といって良い私でも彼がヴァイオリンのギル・シャハムと録音した『シューベルト・フォー・トゥー』という編曲モノのアルバムは愛聴していました。ギターを聴くなら小さなホールで聴きたいな(そんなに大きな音色の楽器ではないので)、とは常々思っていましたが、セルシェルをフィリアホールで聴けたのは僥倖だったと言えましょう。リッチな響きのあるホールとは言えませんが、ギターの音の芯が残響でぼやけず、それでいて音量は充分に客席に届き、とても気持ち良く聴くことができました。




コンサートはダウランドから始まって、これがもう、うっとりじんわり、といった世界。同行したクラシック・ギターを習っていた上司は「音がパキパキしている」とおっしゃっていましたが、セルシェルが弾いている11弦ギターという楽器は1-6弦が通常のギターよりも短3度音が高いのだそうです(リュートの曲を編曲無しで弾くように開発されたものなのだそう*1)。低めのチューニングで取られた音色はとても気持ち良く、ダウランドのブルース感(この明るいのだか、暗いのだか判別がつかない感じはエリザベス朝のブルースなのです)に浸ってしまいます。それから今回のプログラム・タイトルについてのアナウンスがあり、ビートルズの楽曲へ。このへんは結構あっさり流れてしまうのですが(ポールって良い曲書くよねえ、やっぱり天才だよねえ)ほとんどアタッカでJ.S.バッハに入ってからは、もうどんどん熱が高まっていく感じ。





後半もペルトやヴァイスで空気を整えて、バッハに入ってから白熱していった印象があります。しかし、その燃え方は超絶技巧の奏者が聴衆の前でオラオラと自分の実力を見せつける感じでもなければ、公共の場で声高に音楽の価値を叫ぶようなものでもありません。そのように聴き手に対して外側から熱を浴びせるのではなく、聴き手の体のなかから徐々に温めていく遠赤外線かよ、というタイプの演奏なのですね。こうした演奏には、自然に耳のほうが音楽に寄っていく。この日演奏されたバッハの無伴奏チェロ組曲の第2番、第4番(アンコールには第6番から2曲抜粋で)に関して言えば、これらは不朽の名曲であって、人類史に残る楽曲だ、と称されていますが、セルシェルの演奏は楽曲をそのロマンティックな地位から、バッハの同時代の音楽観へと引き戻すようでした。彼の態度は、世の様々なチェリストがこの楽曲を自らの、あるいは大作曲家の魂の叫びとして扱い弾き込むのとは真逆のものです。ギターという楽器の特性もあるかもしれません。聞き慣れてしまったチェロの唸るような歌い込みから解放された無伴奏チェロ組曲は、最初からチェンバロのために書かれた華麗な舞曲のように響きます。そこで《叫び》の一声が多声音楽に展開されるのです。それがとても新鮮でした。こんなに軽やかな音楽だったのか、この楽曲は、と驚きます。





セルシェルのアナウンスは、今回はゆっくりな曲ばかりを集めている、それは新しい価値観や生き方、スロー・フードだとかスロー・ライフだとかそういうものへの取り組みから思いついたんだよ~、的なお話でした(うろおぼえ)が、彼の音楽とそのライフ・スタイルは見事に繋がっているようにも感じます。パブリックなもの、グローバルなものを目指していったのが近代でありロマン派なのだとしたら、逆にプライベートなもの、ローカルなものに回帰するオルタナティヴという感じがセルシェルの音楽から受け取れます。その回帰がピリオド奏法の追求のような「ホンモノ」を志向する態度になってしまうと、ロマン派の目標が変わっただけバージョンになってしまう。けれどもそうならないのが彼の絶妙なバランス感覚なのでしょう。考えてみれば、この日演奏された曲は全てギターのための曲ではないのですよね。しかし、そうであっても演奏に触れているうちに「ああ、この曲は、こういう性格の楽曲だったのかもしれない」という彼の世界のリアリティに引き込まれてしまう。そうでなくてはならぬ、という使命や運命によって支配された深刻さではなく、そうであったのかもしれない、というか、こうであってもよかったんだよね、という安らかな納得感? 良い演奏会でしたよ~。






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