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コンポージアム2011 サルヴァトーレ・シャリーノの音楽 @東京オペラシティ コンサートホール

東京オペラシティ主催の現代音楽フェスティバル、コンポージアム2011の企画公演「サルヴァトーレ・シャリーノの音楽」を聴きにいきました。本来は昨年の5月に行なわれるはずのコンサートの延期公演ということで待たされた分、期待は高まります。演奏者と曲目の情報は以下。
指揮:マルコ・アンジュス(1-4)
フルート:マリオ・カローリ(2)
カウンターテナー:彌勒忠史(4)
パーカッション:安江佐和子(4)
フルート四重奏:斎藤和志/大久保彩子/多久潤一朗/木ノ脇道元(4)
サクソフォン四重奏:平野公崇/大石将紀/西本 淳/田中拓也(4)
洗足学園音楽大学フルートオーケストラ&サクソフォンオーケストラ(4)
東京フィルハーモニー交響楽団(1-3)
1. シャリーノ:オーケストラのための《子守歌》 (1967)
2. シャリーノ:フルートとオーケストラのための《声による夜の書》(2009)
3. シャリーノ:電話の考古学-13楽器のためのコンチェルタンテ (2005)
4. シャリーノ:海の音調への練習曲-カウンターテナー、フルート四重奏、サクソフォン四重奏、パーカッション、100本のフルート、100本のサクソフォンによる(2000)
シャリーノという作曲家をどのように位置づけて良いものか分かりません。現代音楽がリスナーの非常に限られた世界でのお話である以上「現代イタリアを代表する作曲家」と言われても、知らない人にとっては「へえ~、じゃあ偉いんだね」程度で終わってしまうお話。それは「海釣りの世界では知らないモノはいない」とか「福井県で一番多くメガネのテンプルを製造している工場」ぐらいの有効性しかないように思われます。一言で乱暴に彼の音楽をまとめるなら「特殊奏法系」。似たような性格の作品を書いている作曲家にはドイツのこれまた「現代ドイツを代表する作曲家」であるヘルムート・ラッヘンマンがいますが、ラッヘンマンが新しい奏法によって既存の器楽体系を異化しようとするのに対し、シャリーノは既存の美学の延長線上で新しい音を探究しているように感じられる。この関係、ラッヘンマンは「おもしろ系」だけれども、シャリーノは「詩人系」とでも言えるのかもしれません。ハーモニクスを多用し、オーケストラを使用しているのに全く《オーケストラ》の音がしない、にも関わらず美しい作品は以下の音源集でも確認できるでしょう。


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サルヴァトーレ・シャリーノの作品集を聴いた

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サルヴァトーレ・シャリーノの作品集を聴いた #2


サルバトーレ・シャリーノ(1947- ダルマに似ている)

今回の演奏会では初期作品と最近の作品が演奏されていましたが、基本的なテイストはあまり変わらず。独学で芸術の道を歩む人はデビュー時から作品のコンセプトが一貫して揺るぎない傾向があるように感じられますが、シャリーノもほとんど独学で音楽を学んだそう。だからこそ、セオリー通りの管弦楽法にはない新しい音響を思いつくのかもしれませんが、生で聴いてみるとそのセンスに改めて驚かざるを得ません。家庭の音楽再生環境では聴き逃してしまいがちな弱音による超低音のテクスチャは、生で音楽を聴いている喜びを端的に味わわせてくれる。

個人的に一番ハッとしたのは《声による夜の書》でのサンダーシート(ぶら下がり健康機みたいなのに吊られてる鉄板上のパーカッション)の使用法でした。ホワイトノイズが鳴っている部分があり「む、電子楽器でも使っているのか?」と思っていたら、ステージの奥のほうでサンダーシートを細かく揺らして作り出している音で、その響きを曲中で三種類ほど使い分けている。一枚の鉄板からこんなに多様な音が出るのか……というのに感心しました。《声による夜の書》の演奏は独奏者のマリオ・カローリも素晴らしい演奏を聴かせてくれ、本日の演奏曲目では一番良かったと思います。響きの性質も一番マイルドに思われ、これはもしかしたら近年響きが柔和になっている、ということなのかもしれませんが、独奏フルートのブレスや音色のコントロールの素晴らしさがオーケストラの伴奏のなかで際立って聴こえる。ホールの特性も効果的だったのでしょうけれど、あんなに大きな音でピアノ(強弱記号の方の)を聴かせてくれる演奏者も初めてでした。

今回のプログラムを一通り聴いて気づいたのは特殊奏法や音響の選択が、生活音や具体音を直接的に模倣する「大ネタ」として組み込まれていたことです。《声による夜の書》ではちょっと気がつきませんでしたが、《子守り歌》では管楽器のブレス音が「寝息」として、《電話の考古学》ではパーカッションが「携帯電話の着信音」として、《海の音調への練習曲》では100本ずつのサックスとフルートのキー・ノイズが「雨音」として使用される。こうした生楽器による具体音楽とでも言うべき表現は、ラッヘンマンも一時期コンセプトとして掲げていたはずですが、シャリーノのほうが「圧倒的に分かりやすく」「っていうかそのまんまじゃん!」というのが決定的に違う。この圧倒的に分かり易いポイントを基軸として作品の流れを統御しているのですごく構成がはっきりして聴こえる。これが作品への取っ付きやすさを生むのでは、とも思いました。偉い人たちの頑張りようによってはリゲティぐらいポピュラーな作曲家にバケる可能性もなくはないのでは。個人的にももう少し色んな作品を聴いてみたいところ。

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