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歴史の変奏




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 新年一発目のエントリーをトマス・ピンチョンの処女作を読んだという報告からはじめるというのは、この一年が不気味に濃厚なものとなることを予感させ、自分でも何故年末年始のゆったりと過ごしたい時期に体力の要る読書をしているのかよくわからなかったのだが、小説はとても面白かったのでよしとする。『V.』という長編を書き上げたとき、ピンチョンは26歳。その若さでこのような大作を仕上げる才能はうらやましい。『競売ナンバー49の叫び』、『重力の虹』と読んできて、ここで「ピンチョンは最初から“ピンチョン”だったのだ」という事実を確認すると、寡作ながらもすでに40年以上「ピンチョンであり続ける」という事態にまったく呆れ返ってしまう、というか。


 ピンチョン作品を読む楽しさについては以前に書き綴った通り。未だに私は「こういうフィクションこそ読まれなくてはいけない」と考えている。


 ピンチョン作品を読み続けていて、作家の音楽への造詣の深さについて考えることがあったのだけれど、この作品でも同じように強く「音楽」を感じることができた。作中に登場する音楽について語ろうとするならばおそらく『プルーストを聴く』的な試みができるようにも思う。しかし、もちろんそこでは現実には存在しない作品が数多く登場する――ヴィヴァルディの《カズー協奏曲》(何故ピンチョンはいつもカズーを取り上げるのだろう……)は存在しない。また、第14章で展開される前衛バレエのスキャンダル、ウラジミール・ポルセピックの《中国娘の陵辱》は存在しない。しかし、この「事件」は1913年にピエール・モントゥーによって初演されたイゴール・ストラヴィンスキーの《春の祭典》のスキャンダルを下敷きにして描かれたものだ(それについては、翻訳者による『解説』にも書いてある)。ストラヴィンスキーの起こしたスキャンダルは、作家の手によってさらに過激なものへと作り変えられている。このような現実、というか「歴史の変奏」が小説のなかにいくつも点在しているところが面白かった。


 第一次世界大戦におけるスピットファイアとメッサーシュミットの空中戦とエバン・ゴドルフィンというパイロットの悲劇(負傷した彼の顔面は、セルロイドや銀などの無機物によって化け物のように整形されてしまう!)や、ニューヨークの地下でネズミに布教を行う神父の存在といった「変奏」は、不気味である。そして「そんなやつおらへんやろー」と汚い声をあげたいぐらいにうそ臭い。張りぼてのような虚構性が際立っている。しかし、そのネタ元となる「歴史」のほうはどうだろうか――事実として信じられている歴史もまた、ピンチョンのフィクションのようにうそ臭くないだろうか。ピンチョンを読んだあとでは、カミーユ・サン=サーンスが無言で席を立ち、観客が騒然とし、客席で殴り合いさえ起こったという、《春の祭典》のスキャンダルを、すんなりと事実として受け止めることはできないような気がするのだ。





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